1939年3月31日、ドイツのウィスバーデンに生まれる。56年、フランスのブルターニュのイエズス会寄宿学校に入り、卒業後、パリで政治学を学ぶ傍ら、映画学校にも通い、ヌーヴェルヴァーグの重要な監督たちと親しくなり、ルイ・マル、ジャン=ピエール・メルヴィル、アラン・レネの助監督をつとめる。60年に短編“Wen kümmert's?”で監督デビュー、66年に『テルレスの青春』で長編監督デビューを果たしカンヌ国際映画祭で国際批評家賞を受賞する。71年に、自身の作品に女優として出演していたマルガレーテ・フォン・トロッタ(『ハンナ・アーレント』監督)と結婚し、75年にはハインリッヒ・ベルの同名原作の映画化『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』を共同監督で発表した。79年、ギュンター・グラス原作の『ブリキの太鼓』でドイツ人監督として初のカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞、同時にアカデミー外国語映画賞にも輝いた。その他の主な監督作品にドイツ・フランス合作となったマルセル・プルースト原作の『スワンの恋』(83年)、アーサー・ミラーの原作をダスティン・ホフマン主演で映画化した『セールスマンの死』(84年)、ジョン・マルコビッチを主演に迎えた『魔王』(96年)、ナチ占領下フランスで起きたヒトラーの報復を描いた『シャトーブリアンからの手紙』(14年)などがある。
第二次世界大戦末期、敗戦間近のナチス・ドイツを率いるヒトラーは、ある命令を下した。「パリを破壊せよ」。パリに魅了された男の屈折した思いによる暴挙だったが、1人の男がそれを阻止した。──戦争映画の傑作『パリは燃えているか』にも登場するエピソードを凝縮した本作は、運命の一夜の駆け引きをスリリングに描き、見る者の目を惹きつける。
監督は、カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)に輝いた名作『ブリキの太鼓』の名匠フォルカー・シュレンドルフ。ドイツに生まれ、パリで学んだ彼に、本作に込めた思いを語ってもらった。
監督:長い長い話があるんだ。1955年まで遡る。つまり、戦後10年だね。やっとドイツから外国に旅行できるようになったその年、医者だった父親に連れられて兄たちと4人で一緒にカブトムシ車に乗ってフランスに行ったんだ。そこで初めてパリを訪れた。パリは今と同じように美しかったね。美しさに余計に感動したのは、戦争で徹底的に破壊された都市しか見たことがなかったこともあるだろうね。
それから1年後に、3ヵ月の交換留学生としてフランスに行った。パリに魅せられて、毎日のようにセーヌ河畔を散策したものだ。その時にフランス人の同級生から、この美しいパリが残されたのはあるドイツの将軍のおかげなんだと聞いた。だから、この話は50年以上前から知っていることになる。
3年前にプロデューサーからこの映画の話が持ち込まれた。「やってみないか」と聞かれて、すぐ承諾したよ。原案である舞台(フランスで大ヒットしたシリル・ジェリー作の「Diplomatie」)は評判がよく、成功していた。実際の舞台は見ていないよ。その数年前にすでに上演が終わっていたからね。
監督:舞台劇を映画化するのは難しいものだ。私は何回もやった経験があるからよく知っている。私の作品で一番知られているのは『セールスマンの死』(85年)だが、こうしたらうまくいくという王道はない。1作1作に、良いアイデアが必要だ。大事なのは「開く」こと。外に出て行くことだ。そうしないと劇場での芝居になってしまう。
監督:いや、あれは芝居の中のフィクションだよ。実際にはなかった。これは史実に基づいたドキュメンタリーではなく演劇だから、あのような嘘も許される。ナポレオン3世が愛人との密会のために作らせた階段と秘密の扉なんて面白いじゃないか!
──なんとかしてパリを守ろうとする中立国スウェーデンの総領事ノルドリンクと、ヒトラーにパリ壊滅作戦を命じられ、家族を人質にとられた状態のドイツ軍パリ防衛司令官コルティッツ。2人の駆け引きに息が詰まりそうになりました。彼らの“一夜の駆け引き”を、以前、監督はボクシングの試合に例えていましたが、硬軟織り交ざった1つひとつのやり取りをどのように生み出したのですか?
監督:70年前に行われた外交は、“人間 対 人間”の駆け引きと対話だった。私はヒューマニズムを信じる古くさい人間で、かつての外交のやり方を信じている。その意味でスウェーデン総領事のノルドリンクという役柄に親近感を感じている。彼は大惨事が起きるのを防いだのからね。でも、監督というのは、映画の現場では“将軍”だ。軍隊のように全てを前もって計画し、その通りに実行する。“行為”の人だからね。だから私は、ドイツ側のコルティッツ将軍にも共感できる。彼の持つドイツ人としての一面が嫌いでもあるが、もう一面で、今も私の中にあるドイツ人が彼を100%理解できるんだ。
監督:人は年を取るに従って自分の過去を振り返り、自分が何によって影響を受けてきたかを考えるようになる。もちろん、たくさんの人から私は影響を受けた。例えば、ルイ・マル監督だ。彼とは長い間一緒に仕事をして、たくさん影響を受けた。場所でいえば、パリから最も影響を受けた。若い頃には、そういうことを忘れてしまうものだが、ある年齢に達すると、また思い返すんだ。私はパリで生まれ、大きく育ったと言える。もちろん肉体的にはドイツで母親から生まれたのだが、ドイツでの誕生はまったく思い出せないんだ。パリに到着したのは15歳の時で、離れたのは25歳の時だ。この年代の10年間は1人の人間にとってもっとも大事な時間と言える。現在の私のアイデンティティを形成した場所は明らかにパリだと思う。今でもよくパリに行く。小さなアパートも持っているし、友だちもたくさんいる。パリは私にとって“運命の場所”と言えるだろう。
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