『レディ・バード』グレタ・ガーウィグ監督インタビュー

映画作りのコツは「自分より頭のいい人を雇え」

#グレタ・ガーウィグ

本作は、故郷の街に向けて書いたラブレター

全米4館で公開され、口コミで人気を呼び、ついには1557館にまで拡大公開された話題作『レディ・バード』。サクラメントの片田舎に暮らす女子高生の、高校最後の1年間をユーモアたっぷりに描かれていく。

これがデビュー作となるグレタ・ガーウィグ監督自身の実体験に着想を得た本作は、かつて少年少女だった大人のみならず、今まさに青春まっただ中の若者たちの共感も誘う。そんな本作について、ガーウィグ監督に話を聞いた。

──ご自身の体験に着想を得た作品ということですが、実話も入っているんですか?

監督:作品内の出来事に実話は1つもないけれど、故郷、幼少期、巣立ちに対する思いにつながる核心な部分は実話よ。
 私はカリフォルニア州サクラメント出身で、サクラメントが大好きなの。そんな街にラブレターを書きたいという思いが、この作品を作ろうと思った最初の動機よ。出身地に思いを馳せるようになったのは、離れてみてからのこと。16歳の子にとって、関心事は出身地以外のものにあることがほとんどで、そこへの愛着を見出すのは難しいものだから。

──サクラメントへの思いをお聞かせください。

『レディ・バード』
2018年6月1日より全国公開
(C)2017 InterActiveCorp Films, LLC.

監督:ジョーン・ディディオンもサクラメント出身。ティーンエイジャーの頃、彼女の著書を初めて読んで衝撃を受けたわ。私自身、実際にダブリンで生まれ育ったかのような感覚に襲われたの。そしてすぐにジェイムズ・ジョイスも読んだ。彼女、私の中では桂冠詩人のような人よ。自分の故郷を芸術家の視点で見る経験は初めてだった。それまでは芸術や執筆というものが「重要」なものに対して行うべき行為だと思っていて、自分の人生は全く重要なものに思えていなかった。でも彼女の美しく、明確で、具体性のある文章は私の住む世界について書かれていた。彼女の作品の中に出てくる女性をはっきりと思い描くことができたの。クローゼットの整頓の仕方、大切にしている物事など、この地域特有の中流農家の世界観よ。
 カリフォルニアと聞いてサンフランシスコやロサンゼルスを思い浮かべる人が多いと思うけれど、カリフォルニア州の中央には農業が行われている壮大な渓谷が走っている。サクラメントはその北端に位置し、州都であるものの、農地が深く根ざしているの。目立とうとしたり、ブランド化したり、売り込もうとしたりすることなく、慎み深くて、土地や人に対する誠実性がある地域よ。

──主人公クリスティンは出身地のサクラメントのみならず、自身の名前も拒絶しますね。なぜでしょうか?「レディバード」にはどんな意味があるのですか?

監督:名前を付け直すというのは、クリエイティブかつ神聖な行為。新しい名前を付けることを通して名づけ親となり、真のアイデンティティを見出すの。真実を貫く上での嘘とも言えるわ。カトリックの伝統では信仰告白時に見習いたいと思う聖人の名前を付けるコンファメーションネームというものがある。ロックンロールでは架空の広い世界を占拠するため、デヴィッド・ボウイやマドンナなどのように新しい名前を付ける。
 脚本を書き始めた頃、どうしても打ち破ることのできない壁が次から次へと私の前に立ちはだかってきた。そんなとき、私は全てを放り出し、真っ白なページの上部にこう書いたの。「何でレディバードと呼んでくれないの? 約束したじゃない」って。この変わった名前で呼ばせようとする女の子の素性を知りたかった。名前の由来については、不思議なことに書く前には思いついてもいなかったけど、響きが大好きなの。気取っていながらも古風で。脚本を書いていくにつれ、女の子の素性が明らかになってきたわ。
 しばらくしてから、マザーグースに「レディバード、レディバード お家に飛んで帰りましょ」という歌があったのを思い出したわ。子どもたちが無事かどうか確かめるために母親が家に帰るという内容で。こういうのってどうやって脳内に焼き付いて、なぜ浮かび上がってくるのかよく分からないけれど、私が物事を創造的に生み出す際に必要不可欠な要素だったようね。無意識のうちに何かを引き出してきたの。

──本作はレディバードの高校最後の一年間の物語です。この時期の話を映画にしようとしたのは、なぜですか?

監督:アメリカのティーンエイジャーは新入生、2年生、3年生、最終学年と、学年ごとに生活が変わる。だから、丸1年のストーリーを作るというのが私にとって理にかなったことだったの。年間の儀式が循環し、始まりと同じ場所に戻って終わる。スパイラル状に上がっていく感じ。最終学年というのは鮮やかに燃え盛り、一瞬で消滅する。終わりが近づいている世界には特有の鮮やかさがあり、「終わり」直前の感情が存在する。これは親も子どもも同じよ。気づいたことのなかった美しさがあり、それに気づく頃には終わる。時間が押し寄せる様子も本作のテーマとしているの。次から次へとシーンが移り変わり、止めることなどできないわ。

──本作はあなたの監督デビュー作です。脚本を書かれている段階から監督も担うつもりだったのでしょうか?

監督:執筆は私にとって膨大な時間がかかること。正確には分からないけれど、何年もかかっているかもしれないわ。でもその間ずっと書き続けているわけではない。登場人物やシーンを点々と書いている感じよ。私は書きすぎて何百ページも無駄にする傾向があるの。不要な部分を次第に削り落とし、エッセンスを見つけ出す。執筆している最中は、映画にするのは不可能なように感じるから、監督をするというのも意識していなかったわ。
 でも脚本を書き終わって、監督をするんだと思った。ずっとそのつもりだったんだということにも気づいた。自覚すると不安になるから、自覚できなかっただけだったんだと思う。記憶を遡ることができる限りではずっと監督を務めたいと思いながらも、すぐには勇気が出なかったの。

──監督をした感想を教えてください。

『レディ・バード』
(C)2017 InterActiveCorp Films, LLC.

監督:監督についてはまだ学んでいる途中。80代になったとしても、学びを続けていきたいと思っているわ。私が学んだことを全て羅列することだけでは面白くなく、できもしない。確実に言えることは「自分より頭のいい人を雇え」ということ。撮影監督のサム・レヴィ経由で聞いた、偉大な故ハリス・サヴィデスの言葉よ。これは出演者からセット装飾担当者、ポスターデザイナーにまで当てはまることだと思う。私は運よく自分よりも間違いなく頭のいい人に囲まれたわ。
 もう1点、「監督」という肩書はあまりしっくりこないと思うの。「監督する」だけで、必要なものは全て揃っているというニュアンスがあるから。フランス語の「réalisateur(レアリザトゥール)」という言葉が実態をよく表していると思う。監督というのは、映画を「実現」する人よ。映画を現実に引き起こし、実際の形や存在を作り上げる。映画は作られなければ存在を誰にも知られることはなく、実現しなければ、存在する理由も全くないの。

──本作を製作している中で苦労したことと、やりがいを感じたことは何でしたか?

監督:1番やりがいを感じたことは、出演者の演技を見れたこと。私は1人で台詞を書いてきて、頭の中で台詞を聞いてきたけれど、突然命を吹き込まれ、私の想像を遥かに超える状態で具現化された。関わる人が自身のクローンで、全て自分の思い通りにできたらいいのにと望む監督もいると思うけれど、私はそういうタイプの監督じゃない。他者に魂と独創性の全てを注ぎ込んでもらうプロセスこそが、大きな喜びの1つよ。苦労したこと?全てのステップで苦労したけれど、全部忘れたわ。

『レディ・バード』
(C)2017 InterActiveCorp Films, LLC.

──以前は女優でもありましたね。そのことは、この制作に影響を与えましたか?

監督:女優として働いた経験から、オーディションのプロセスをとても慎重に扱っているわ。オーディションでは何度も屈辱感を味わわされたから。自分が全身全霊を注ぎ込んできたものに対し、顔を上げて見てももらえないとどんな気持ちになるか、分かっているの。演技がすばらしくても、全員をキャスティングすることはできない。でも演技を見せてもらっている間、彼らを尊重し、配慮することはできるわ。
 また、出演者が監督抜きの世界を持つ必要があるという点も強く感じているの。出演者同士のつながりが必要で、それに監督が参加する必要はない。私は出演者が楽しむ場を与えたかった。だから、ある出演者と衣装デザイナーのミーティングを設定したとしても、私は参加しない。2人だけで会話をし、一緒に役を作り上げている感覚を味わってほしいから。
 もちろん、いいと思うか思わないかを言って意見することはあるけれど、あまり入り込み過ぎないようにしたかった。俳優や女優であるということは、その役柄を所有するようなもの。にもかかわらず、他の人に「それは違う。こうして」と言われ続けたら、自分の役だという実感は決して生まれないと思うの。はっきりと線引きをして、役を私から引き継げるようにするのが私の仕事。もはやそれぞれの役は私のものではないのだから。

私の知る限りでは、母と娘の間の愛こそが1番深い
『レディ・バード』
(C)2017 InterActiveCorp Films, LLC.

──シアーシャ・ローナンをキャスティングした理由を教えてください。

監督:2015年のトロント国際映画祭の際、私は『ブルックリン』(15)のために来ていたシアーシャ・ローナンと会ったの。彼女のホテルの部屋に座って、彼女と一緒に脚本を読み上げた。彼女が台詞を読み上げた瞬間から彼女がレディバードだと疑う余地もなかったわ。私の想像とは全く異なり、想像を遥かに超えていた。強情でひょうきんで、わくわくさせられたの。また、普遍性も独自性も持ち合わせていたわ。彼女はブロードウェイで上演される「るつぼ」(16) のリハーサルに向かうところだったから、彼女を採用するなら製作を6ヵ月後ろ倒しにすることになったけれど、彼女以外に演じられる人はいなかった。2分読み合わせただけで彼女に決まりだったわ。

──本作は、母と娘のストーリーが中心のように感じました。

監督:その通りよ。本作の中で、母と娘の関係性を愛の物語として描いているわ。長い間、本作の仮タイトルが「母と娘」だったほどよ。
 ティーンエイジャーの女の子を取り上げた映画というのは、ある男の子を中心にストーリーが展開されていく場合がほとんど。白馬の王子のような存在で、人生の悩み全てが解決してしまう。でも実際はそんなに簡単じゃない。
 私が知っている女性のほとんどがティーンエイジャーの頃、非常に美しく、とてつもなく複雑な関係性が母親との間に持っていた。これを中心とした映画を作り、全ての場面でどちらの立場にも感情移入できるようにしたかった。どちらかが「正しく」、どちらかが「間違っている」という構図は避けたいと思ったの。お互い苦しいほどに相手と理解し合えないながらも、最終的には究極の愛に報いたいと思った。私にとって、これこそが最も感動するラブストーリーよ。私の知る限りでは、母と娘の間の愛こそが1番深いと思う。

──レディ・バードと父親のラリーの関係はいかがでしょう?

監督:ラリーはレディバードのヒーローよ。父親のことが大好きで、自分が父親を苦しめていたり、どうすることもできない寂しさを味わわせていたりすることに耐えられない。トレイシー・レッツは俳優としても脚本家としても大好きだけれど、本作ほど穏やかな役柄にキャスティングされている彼は初めて見たように思うわ。知的で強いにもかかわらず、一歩間違えればろくでなしというような役柄が多いから。もちろん、そういう役の演技もすばらしいわ。でもサンダンス映画祭で会ったとき、舞台や映画で見たこともないような温かさや穏やかさがあった。私にとって、彼はラリーだったの。才能があり、親切で、この役に感情的な深みをもたらしてくれたわ。

──本作は2002年という特定の年に設定されていますが、なぜですか?

監督:簡単に言うと、スマートフォンを映すのに興味がなかったの。現在、ティーンエイジャーを扱った映画を製作するとなると、オンラインで起こっていることが多すぎて、スマートフォンのスクリーンを映さずに映画を作るのは不可能だと思う。
 より深い理由としては、9.11直後の映画を作りたかったから。全く新しい時代に突入するきっかけとなった時期で、最近になりようやく私たちもそのことを理解し始めている。ただし、私の目的は世界の政治や国内の経済に関するコメントをすることではなく、それらを提示すること。中流階級の崩壊が起こり、今もなお新たな経済情勢の最中に生きている。作品の高校時代とは異なり、実際私は大学生だったけれど、イラク侵攻は私の記憶にも鮮明に残っているわ。そしてもちろん、今日もなお駐留しており、軍を全て引き上げてはいない。私が興味あったのは、現代のテレビで放送される戦争とそのプロパガンダや現場について。戦争の恐怖が自分に降りかかりつつも、全てが遠く離れた場所で管理されている。戦争の恐怖に、就職市場の不安定さ、恋愛に友情。どのテーマも切り離すことができないのが人生で、歴史も個人の人生も同じ場所で同時に存在しているのよ。

グレタ・ガーウィグ
グレタ・ガーウィグ
Greta Gerwig

1983年、カリフォルニア州サクラメント生まれ。最初は女優として活動、『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』(10年・未)で注目され、インディペンデント映画シーンのミューズとして活躍。『フランシス・ハ』(12年)でゴールデン・グローブ賞主演女優賞にノミネートされ、共同脚本も担当。また、『ミストレス・アメリカ』(15年・未)などでも主演・共同脚本を務めた。主な映画出演作は、『抱きたいカンケイ』(11年)、『ローマでアモーレ』(12年)、『トッド・ソロンズの子犬物語』(15年)、『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』(15年)、『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』(16年)、『20センチュリー・ウーマン』(16年)、『犬ヶ島』(18年・声の出演)など。