1981年ポーランドのヴィエルコポルスカ県ポズナニ生まれ。舞台俳優の父とゴスペルシンガーの母との間に生まれる。初監督した短編映画『Fajnie, ze jestes』(英題『Good, You’re Here』、04年)が第57回カンヌ国際映画祭シネファンデーション・コンペティション部門で高く評価された。長編デビュー作『Suicide Room』(11年)はポーランドの新世代が直面するインターネット中毒を生々しく描き、第61回ベルリン国際映画祭パノラマ部門に正式出品された。長編2作目となる『リベリオンワルシャワ大攻防戦』(14年)は本国ポーランドで180万人を動員する大ヒットを記録。Netflixで配信中の最新作『ヘイター』(20年)では本作の脚本家マテウシュ・パツェヴィチと再度タッグを組み、トライベッカ映画祭のインターナショナル・ナラティブ部門で最優秀作品賞を受賞。米HBOでのTVシリーズ化が決定している。監督だけでなく、脚本、プロデュースと多岐に渡って活躍し、ポーランドのみならず世界で注目される若手監督の一人である。
『聖なる犯罪者』ヤン・コマサ監督インタビュー
罪を犯した過去を偽り司祭を名乗った男、実話をベースにした衝撃の問題作
狂気をミステリアスなものでなく、身近な恐ろしさとして見せたかった
少年院で出会った神父の影響で熱心なキリスト教徒となった青年ダニエルは、前科者は聖職者になれないと知りながら、神父になることを夢見ている。仮釈放が決まり、少年院から離れた田舎の製材所で働くことになったダニエル。道中に立ち寄った教会で偶然出会った少女マルタに「司祭だ」と嘘をつき、新任の司祭と勘違いされ、そのまま司祭の代わりを任されることになる。一年前、この村で7人もの命を奪った凄惨な事故があったことを知ったダニエルは、心に深い傷を負った遺族たちを癒そうと模索するが、同じ少年院にいた男が現れ、事態は思わぬ方向へ……。
聖職者に憧れ、司祭という偽りの自分にのめり込んでいく青年を通して、善と悪、罪と赦しなど複雑なテーマに迫ったポーランド気鋭の若手監督、ヤン・コマサ。彼に本作への思いをたっぷりと語ってもらった。
監督:9年ほど前、実際にポーランドで3ヵ月間神父のふりをしていた少年に関する事件が、新聞のヘッドラインを飾ったことがあったんだ。パトリックという当時19歳ぐらいの青年だった。脚本のマテウシュ・パツェヴィチが当時の記事を新聞に書いたのだが、それがきっかけでこの映画を作ることになった。主人公の名前をダニエルに変えたが、人物像や彼が小さな村に流れ着いたきっかけもほぼ事実に基づいている。彼は結婚式をはじめ洗礼や葬儀も行っていた。彼は完全に神父の仕事に魅了されていて、本当の神父になりたかったんだ。
実際の事件をベースに少年院での出来事、村で起きた事故に関してはマテウシュが付け加えた。もちろん似たような形で、実際に彼が解決しようと取り組んでいた問題は多かったそうだ。事実が公になった時、大きな衝撃を与えたもう一つの理由が、実はパトリックが前任者より有能だったということ。教会外の特定の教義など気にしない人物が神父のようにふるまい、人々も彼の仕事にとても満足していた! 一部の人たちは裏切られたと感じたようだが、彼はたくさんの新しい信者を得ていた。とにかくポーランドだけでなく、似たような事例があちこちで頻繁に明るみに出ている。スペインでは、とある男が12年間も神父と偽って生活していた。なぜこのようなことをするのか理由はそれぞれ異なるようだ。多くの場合は法から逃れようとして、身を隠すのに小さな村が利用されやすい。人々が細かい部分に疑問を抱かないからね。
監督:本作がアメリカ映画『天使にラブソングを』のような大衆的なコメディになるのを避けるため、劇中の教会内の人たちのように観客にも彼を信じさせなければと思った。台本においても演出においても、非常に難しいチャレンジだった。一つ救いだったのは人は若者を赦す傾向にある。神父になりたての青年が「反体制的」な考えを持っていて、ミサに現代的な音楽や歌を取り入れようとする。ポーランドではラップをする神父もいるんだ(笑)。人々は彼の足りない部分を受け入れていた、というのがストーリーの前半部分のポイントだった。新しい考えを持った若者だと。
ダニエルは神学校に通ったわけでも、そういった施設にいたわけでもないので、思ったことをストレートに語るんだ。そういう風にしか彼にはできないから。わざとやろうとしても、なかなかできないことだ。しかし彼には「天与の才」があった。その場に応じて適切な言葉を話すことができた。辛い時期をすごしていた人々にとっては、その言葉は十分すぎるほど心に響いた。主演の役者を探していた時、ちょっと変わった人がいいと思っていた。バルトシュ(・ビィエレニア)はダニエルというキャラクターを完璧に昇華させた。ダニエルは普通ではなく特別な人だったんだ。
監督:短い時間の中で強い印象を与えたかったので、(少年院のシーンは)ストーリーテリングにおいて必要な流れだったんだ。見る人を嫌な気持ちにさせ、たじろぐくらいにすればその感情を忘れることはない。そしてこの問題ある青年が天使のような歌声で歌い出した時、そこにはまったく異なるエネルギーが存在している。私は暴力シーンをより暴力的に描こうとした。真逆なコントラストを強調させるために。彼が経験してきたことを知り、彼の説教や人々に語る言葉を聞くと特定の言葉が聞こえてくる。その言葉の裏にある意味が理解できるので、私たちにはまったく違った意味合いを持つようになるんだ。
彼が天国はこの世にあると人々に話す時、彼にとってそれは唯一のオプションであり、そう信じるしかない。なぜなら、実際の社会生活では彼の人生は終わったも同然だったから。若くして恐ろしい事件を起こすという物語ではダルデンヌ兄弟の作品『息子のまなざし』を思い出す。一生消せない烙印を押されてしまうんだ。しかももっと悲劇的なことに、実際に起こした犯罪が招く結果について深く理解していない。ダニエルにとって信仰に目覚めた「霊的指針」のみが彼の中に残された純粋さなんだ。彼のこの一連の行いというのは「もしもう一度チャンスを与えられれば自分はこのように応えられる」と社会に訴える絶望的な試みだ。そして自分を取り巻く環境が不公平だと知っても、それに直面しなければならないという物語なんだ。
監督:映画を作る時、主人公について深く知る必要がある。何度も自分たちでこの質問を繰り返した。もしダニエルが罪を犯さなかったとしたら、そもそもそこまで聖職や教会というものに惹かれていたのだろうか? そうでないということは容易に想像がついた。この教会だけが心のよりどころだったんだ。それ以外、何も彼にとって意味を成さなかった。そしてすべてが公になり、周囲のすべてが自分にとって最悪な方向に動いていると知った時、最後にそこに残ったものとは? まさに信仰だった。複雑な過去や良心の呵責がある人たちは宗教に傾倒しがちだと思う。
観客は“信仰深き人々の偽善”を目の当たりにする
監督:この小さな教会こそが、ダニエルを人々とつなげた共同スペースだった。神父として村にいた短い間、ダニエルは村のコミュニティーのためにあらゆることをして尽くした。しかし、私たちはダニエル自身の経験と結び付く「事故」にフォーカスすることにしたんだ。過去にダニエルがもたらした死は村人たちには内緒だったが、次第に彼のミッションとなり自ら対峙しなければならない重要なこととなった。ダニエルは彼らの悲しみを理解できたので、その悲しみを癒すには心の痛みを声に出すしかないと知っていたんだ。村人たちにそれを教えたのがダニエルで、彼から村人たちへの最大の寄与だった。劇中で「何も失わなかったように、怒っていないふりなどするな。分かったふりをするな」と彼は言うが、彼なりの哀悼というのは普通とはまったく別物だ。それが、まだ血が止まらず傷がふさがっていない傷口のような状態だった村に対立をもたらした。
ポーランドでは哀悼というのは追悼を意味する。教会はそう説教しているし、スモレンスクの惨事(2010年にロシアで起こったポーランド人96人の犠牲者を出した飛行機墜落事故)でも似たような事例があった。この事故の後、とある教会の信者たちの責任者だった女性が他者をコントロールするため教会を利用したそうだ。彼女は神父よりも影響力があり、神父にはもう手に負えなかった。本作とも似た状況だったと言える。狂気というものを人々が滅多に見ることのない、ミステリアスな病気のようなものではなく、誰もがそうなりうるかも知れないという身近な恐ろしさとして見せたかった。
監督:ポーランド人特有なのかどうかは私にはわからないが、かなり一般的なことだと言えるのではないかな。このような物語はそこら中に溢れている。皆、自分の傷を見せたがる。そうすることでアイデンティティを感じ、自分自身を強く自覚するようになるから。ラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』も本作と同じく、教会が影響力を持つ小さなコミュニティーで、ある女性が敢えて他人には理解しがたい行動を する物語だった。トリアー監督によるとあくまでも愛ゆえの行動ということで、最終的に彼女は美化されている。私は本作をポーランドのカトリック教の問題を描いた映画ではなく、プロテスタントの映画として見てほしいと思っている。ある小さな村で起こる清教徒的な思考との対立は、現代世界において居場所を見つけることが難しい人々の癒しになると思う。
監督:時間を無駄にしたくなかった。もちろん具体的に描くことで面白くなったかもしれないが、私は本作が罪なき人々をどう騙せばいいのか、という教科書のようになってほしくはなかった。代わりに、ダニエルが傷ついた人々に和解をもたらす、その瞬間へと直に飛び込んでいきたかったんだ。そしてダニエルはその過程で自分を犠牲にする。できるだけ早くこの場面にもって行きたいと思った。ここから彼の本当の「仕事」が始まり、観客はいわゆる信仰深き人々の偽善を目の当たりにする。すべてを捧げ彼らを救いたいと尽くしても、結局は追い出されるか、もしくは自分から去るよう仕向けられるんだ。
監督:おそらく本作が宿命論的な終わり方をするのはそのせいかも知れない。コミュニティーに一番尽くした人が、まったく報われないというように。ダニエルはチャンスが与えられたにも関わらず、まるでゆっくりと自殺するような方法を選んだ。まったく悲劇的だが、同時に彼にとっては“何か”を成し遂げることができたという面で素晴らしいことでもあった。ロシアのアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の『裁かれるは善人のみ』に言及されることが多いのだが、本作では彼の厭世感より、少しは軽やかさを足したと思っている。起こってしまったことはさておき、少なくとも村人たちは一時でも、よそ者を自分たちの群れに受け入れたのだから。ついでに言えばこの「群れ」というのがこの映画の仮題でもあった。映画で起こったことは完全な赦しではなく、どちらかと言うと静かな受容だった。少し皮肉を込めて「和解の奇跡」とも言えるかもしれない。
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