1974年8月28日、パキスタン西北、アフガニスタンとの国境に近い大都市クエッタに生まれる。ラホールの大学で学び、国際機関で数年働いた後、2006年、米国コロンビア大学大学院映画学科を卒業。コンピュータ・サイエンティストから映画製作の道を歩むようになった独自の経歴の持ち主である。数本短編発表後、長編劇映画監督デビューである本作『娘よ』で、2015年米国アカデミー賞外国語映画賞部門のパキスタン代表作に選ばれる。現在はコロンビア大学でシナリオライティングの教鞭を取り、ニューヨークを拠点に、アメリカとパキスタンで監督志望の学生の指導にもあたっている。
パキスタン、インド、中国の国境にまたがるカラコルム山脈。その麓に暮らす若き母アッララキは、10歳の娘を連れ、村を離れることを決意する。捕まれば死が待つ危険な行動に彼女を駆り立てた理由とは……?
部族間のトラブルを解決するために、本人の意思とは関係なく年老いた長老との結婚が決められてしまった娘と、娘の人生を変えるために決死の覚悟で逃げ出した母。パキスタンの村で起きた実話をもとに作られた本作は、クレテイユ国際女性映画祭観客賞を始め、ソノマ国際映画祭最優秀作品賞など数多くの賞を受賞。世界各国で高い評価を得ている。
パキスタンに生まれ、本作が長編劇映画監督デビュー作となるアフィア・ナサニエル監督に話しを聞いた。
監督:私はパキスタンで、女性がとても強い家系に生まれ育ちました。私の家族の女性たちは、少しでも明るい未来が子どもたちに訪れることを願い、困難な人生に耐え、強く生き抜いた人たちです。そして私は、家父長制が根付く社会で、日常的に女性が虐げられ苦労するのを見てきました。男性不在の世帯は、社会においてだけでなく、地域住民からも非難の対象になります。女性は男性なくして存在することが許されないからです。
この映画の構想は、パキスタンのある村で起こった実話に触発されています。子どもの人生のために母親が娘2人を連れて村を出るという出来事でした。
監督:『娘よ』の物語は私自身と深く共振しているのです。ニューヨークのコロンビア大学で映画監督学を学んでいる時、本作の脚本を書き始めました。母と娘の物語を書きたかったのです。母と娘が逃亡する中、母親がいかにして自身と娘を守ろうとするのかという状況を描きたかったのです。私の中の“作家”が家とのつながりを、そして私の中の“さすらい人”がアッララキのキャラクターを作り出しました。彼女に娘との新たな人生を求める自由を与えることができたのは、このためだと思います。そして私は、三番目に重要な登場人物、トラック運転手を描き始めました。元ムジャヒディンの彼は主人公にとって愛の対象となり、かつ葛藤を生むとても重要な存在です。報われない愛、禁断の愛。愛は、パキスタンの詩や言い伝えの中でも語られています。愛と喪失は常に隣り合わせです。
この映画は、愛と喪失につき、幻想的リアリズムという装置を通して語ることで、我が国の伝統文学に根ざした愛と勇気の物語を探求したつもりです。
監督:10年の歳月をかけ、この映画を制作した私は、実際に娘を持つ母親となり、幼い少女の結婚問題に目を背けることが出来なくなりました。毎年1400万人の少女が強制的に結婚させられているという事実は、大変受け入れ難いことです。私たちを束縛する伝統やしきたりを打ち破ることに、どれだけの犠牲を払えば、自由、尊厳、愛を得ることができるのだろうか、という重要な問いを映画の終盤で提起しました。
監督:この作品制作の道のりは、とても長いものでした。幼くして結婚させられる娘を守ろうとする母親の映画を撮ること、そして海外の観客を失望させないクオリティーの作品に仕上げることは、大変大きな挑戦でした。パキスタンで女性が主人公の映画を女性監督が撮るということで、資金集めにも大変苦労しました。国内の映画界は荒廃しており、スポンサーは女性が肌を露出して腰をくねらせて踊るマサラムービーが見たいのです。また海外のスポンサーには、パキスタンで撮影するリスクに加え、出演が無名の役者たちであることで難色を示されました。まとまった資金援助を国内で受けることは、ほぼ不可能に近かったのです。しかし2012年に転機が訪れました。ノルウェーのSORFUNDからの助成が決まったのです。実際に資金が振り込まれるまで数ヵ月かかり、その間に撮影場所を探しました。
母親の必死の逃避行を演出する上で、ロケーションはキャラクターと同様、とても重要でした。最終的には北部に最適の場所を見つけたのですが、そこは人里離れた地域で、(パキスタン北部の都市)ラホールから遠いところでした。
監督:パキスタンでは、撮影時期などを選んではいられません。その場の状況に応じてとにかく進めなくてはならないのです。この撮影候補地の治安は急速に悪化していたので、2012年10月にはプリプロダクションの段階に素早く移らなければなりませんでした。爆破、過激派による殺害などの危険性、また悪天候も考慮しなければなりませんでした。私たちが選んだロケーションの中には、これまで映画の撮影許可が下りたことなどないパキスタンとインドの国境で、領土問題に発展している荒廃した地区もありました。そのため、すべてのキャスト、スタッフの安全を確保しながら、2ヵ月間、山道で撮影を進めることは、困難を極めました。ラホールへ戻る唯一の道、カラコルム・ハイウェイが降雪で封鎖される前に、どうにかして4週間ですべての撮影を終わらせなければなりませんでした。
道路が封鎖され、数週間、身動きが取れない状況も起こり得ると判断し、撮影チームを二つに分けるなど大変なこともありましたが、真冬のパキスタンで太陽の光を感じ、毎日、陽の差す場所を探し、それを追いかけて撮影するのは、とても楽しい作業でした。毎日早朝5時から日の沈む夕方5時まで、圧倒的に美しい景色の中での撮影は、忘れ難い経験となりました。
監督:途中、この撮影が完全に中止に追い込まれるのではないか、という事態が起こりました。海抜2500メートトを14時間かけて辿り着いた先で、土地のイスラム法学者から撮影許可が下りず、その翌日にはファトワー(イスラム法学者からなされる勧告)がなされようとしていました。私たちに公的な許可証があっても、土地の治安部隊が撮影の保証をしてくれたとしても、効果はありません。その時、撮影チームは、もし私が撮影を続行したいのなら、続けるべきだと主張しましたが、私の心は決まっていました。たとえ撮影の行程変更を余儀なくされ、資金が底をついたとしても、イスラム法に背くリスクを役者やスタッフに負わせることはできないと。聖職者と治安部隊による争いを避け、私たちは直ちにまた危険なルートを折り返しました。これにより貴重な数日を失いましたので、スケジュールを調整し直し、撮影を再開しました。
現地スタッフの感覚、土地勘などは貴重な財産でした。ドキュメンタリー映像の撮影に関わったことのあるスタッフも中にはいましたが、フィクションを撮るのは初めてです。この土地でインディペンデント映画が撮影されるのも初めてのことでした。音響スタッフを探すのが最も大変でした。パキスタンでは野外撮影の音響技術を習得しているプロがいないのです。何故かというと、撮影後に吹き替えをするのが主流だからです! なぜその場で台詞を録音するのかと、ほとんどのスタッフが疑問に思ったほどです。
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