『ちいさな独裁者』ロベルト・シュヴェンケ監督インタビュー

「民主主義とは権利ではなく、特権」全体主義の恐ろしさを描く

#ロベルト・シュヴェンケ

手遅れになる前に、このような欺瞞を防げるようになってほしい

第二次世界大戦下のドイツ。敗戦の気配が濃厚な中で、若き脱走兵が見つけたのは、ナチス将校の軍服だった。それを身にまとうことで“権力”を手に入れた若者は、巧みな嘘の力を借りて人々を服従させることで権力の魔力にとりつかれ、残虐さを増していくのだった……。

『ちいさな独裁者』は、ハリウッド映画『RED/レッド』などのヒット作を放ったロベルト・シュヴェンケ監督が母国ドイツで製作した作品だ。ありえないようなストーリーながら、当時のドイツで実際に起きた出来事を描いたという。

人間の弱さ、愚かさについて考えさせられる本作について、シュヴェンケ監督に語ってもらった。

──終戦の数週間前に部隊からはぐれた実在の兵士、ヴィリー・ヘロルトの実話に基づいた物語ですが、なぜ今、映画化しようと思ったのですか?

インタビューに答えるロベルト・シュヴェンケ監督

監督:実は私はこの物語を映画化するために長年努力してきました。けれど、10年前は製作の許可が下りず、今回、ようやく実現することができたのです。当時はダメで今回はよしとなったのには理由があると考えるべきでしょう。つまり今はそれだけ、この映画を公開することに意味があるということです。それは悲しいことに、1930年代の世界が、私たちが生きる今の世界に共通していることが多いということを示唆しているのだと思います。
 今は、大勢の人が民主的なプロセスに対して失望しています。彼らは民主主義に裏切られ、置き去りにされたと思っているのです。さらにポピュリストたちは民主主義に口先だけで賛同するため、その理念は骨抜きになっています。つまり民主主義の規範が無視され、うまく形を成していないのです。私が非常に驚いていることは、民主主義に投資する人や、関心がある人が少ないということです。私にとって民主主義とは権利ではなく、特権です。私たちはそのために戦わなければなりません。
 この映画は、民主主義のない世界をテーマにしています。つまり、憎悪やポピュリズムがものを言う全体主義の世界なのです。

──映画の中の権力構造は、現代にも通じると思いますか?

監督:どの時代にも通じると思います。
 権力は人を集め、利益のために人を操る方法を知っています。例えば中絶に反対すれば、中絶反対派の票が得られますし、銃の所有に賛成すれば、銃規制反対派の票が得られます。自分がその考えを本当に支持しているかは関係ありません。それが政治家というものです。
 政治家たちが実際に権力を手に入れると、物事は急激に変化します。彼らは権力を保ち、地位を維持しようとします。国民は自分たちに都合のいい“ストローマン”の代表を選んだつもりですが、実はストローマンは“支配者”なのです。また、現代と1930年代で異なることは、もはや権力を得るために全体主義国家を築く必要性すらないということです。(様々な物議を醸す政治評論家でFOXニュースのニュース番組司会者である)ショーン・ハニティーのように影響力のある発言をする人がいれば、宣伝省は必要ありません。つまり自身の政治に有利に働かせ、支配できるのであれば、報道の自由があるのかどうかは重要ではないのです。
 もしワイマール共和国からの教訓を挙げるとすれば、保守派と右派は共通の目的を持っていたので、勢力を強めることができました。一方、左派の民主主義者たちは言い争いを繰り返していました。それが自らの足を引っ張り、国の崩壊の原因となったのです。これは歴史的な教訓であり、決して忘れてはならないことだと思います。

──ラストシーンがとても興味深いですね。あれはゲリラ的に撮影したのですか? ドイツでは公の場所でナチスに関連するアクションはご法度と聞いていますが。

『ちいさな独裁者』
(C)2017 - Filmgalerie 451, Alfama Films, Opus Film

監督:ラストシーンは、私がどうしても撮影したかったシーンです。しかし、具体的にどうするか決めるまでには時間がかかりました。いろいろとアイデアは出ましたが、ラストシーンを最もシンプルに、そして自然に表現できるような演出として、最後に思いついたのがあの形でした。つまり、軍服を着た兵士たちが車を走らせて、現代のドイツにたどり着く。そして兵士たちは普段どおりに振る舞い、その場にいた人たちの反応を見るというものです。
 運転しているシーンは、ゲリラ的に撮影しました。明らかに車で通行してはいけない通りで、堂々とナチス記章を付け、本物の武器を乗せた車を走らせました。すると、数人がヒトラー式の敬礼をしてきたんです。からかっただけなのか、もっと他の意図があったのか、理由は分かりませんが、私には関係ありません。ただ、まだ敬礼をする人がいるという事実が面白いのです。その理由は言葉で伝えられるものではない気がしますので説明しませんが、とても印象的でした。
 広場にいる人たちの身分証などをチェックする次のシーンでは、半分は通行人で、半分は役者で撮影しました。しかし役者たちには、何の役を演じるのかを知らせていませんでした。実際に兵士たちが1人の女性をチェックしていると、彼女の体が震え出しました。兵士たちに乱暴に引っ張られ、怯えている様子が伝わると思います。すると、撮影スタッフがカメラを止め、「やりすぎです。これ以上、撮り続けることはできない」と言ったので、私は憤慨しました。なぜなら、私の現場でカメラを止める権利があるのは私だけだからです。その女性は通行人ではなく役者でした。役者でもそうなるほどリアリティーがあったのです。そのため、他にも反発する役者もいました。「もう無理です」と言われても、「でも彼女は役者なんだ。あなたたちを傷つけるようなことはしないと私が約束する」と言い聞かせていました。そこまで徹底的にやったんです。
 このシーンが意味することは、表面的にはドイツで再びナチスが台頭するということになるでしょうが、実際はもっとグローバルな意味を持っています。この脚本を書く際に刺激を受けたのは、イスラム過激派組織(IS)に関する記事でした。アフリカ北部にて、ISが小さな集落にやって来て、「警察だ。武器と銃弾を持ってる。さあどうする?」と拷問しました。ドイツでも過去に同じようなことが起きていました。そこで私は、今、誰かに銃を向けられ、「パスポートを見せろ」と言われたら、自由主義で現代的な思考を持つ私たちはどのように対処するのかを描いたら面白いと思ったのです。

──長らくハリウッドでご活躍されていて、久しぶりに自国へ戻られて本作を制作したが、その感想は? また本作はドイツでどのような反応で受け止められましたか?

マイケル・ムーア監督(左)とロベルト・シュヴェンケ監督(右)のツーショット

監督:ドイツでは、ラストシーンは悪意があると反応を受けたのではと思うかもしれませんが、実はそんなことはありませんでした。中には、配慮が足りないと感じた人もおり、露骨すぎるとの批判も受けました。私自身、編集段階で、このシーンを使うべきか、カットすべきか悩みました。このシーンを入れた本編と、入れない本編を人に見せたこともありました。すると、ラストシーンに感謝してくれる人がいることに気づきました。「恐ろしい物語を目の当たりにした後にこのラストシーンを見て、ようやくこの映画が伝えようとしていることを理解した。」と言ってくれた人がいました。私はこのように感じてくれる人たちのために、このシーンを残そうと決めたのです。もちろんくだらない批判を受けることもありますが、それは気にしないことにしました。
 大半の観客たちからは、高い評価を受けています。この映画を好まなかった人たちの理由は、評価してくれた人たちがよかったと思った理由と同じなのです。つまり、映画自体に問題はなかったということです。全員が、この映画が意味することを理解してくれていました。とても気に入ってくれた人もいれば、その反対もいます。彼らは歴史を書き換えて、過去の事実から目を逸らそうとしている人たちです。「この映画はドイツ国防軍の歴史に泥を塗った」と私たちを批判する人もいます。しかしドイツ国防軍の過ちは、私たちが泥を塗るまでもなく明らかです。
 ドイツでの映画製作は、予想していた通り、解放感がありました。アメリカの製作会社に長年携わってきましたが、そこでは映画は商品となっています。商品を売り、お金を稼がなければなりません。ですから、できる限りたくさんの人を惹きつけるような映画を作ることに焦点を当て、多くの決断が下されるのです。しかし必ずしもそれが映画のためになっているというわけではありません。観客に満足してもらう内容が映画の質を高め、映画の質の向上が観客の満足度を高められれば理想的でしょう。しかしそれが実際に起こることは、ほとんどありません。
 今回は、「この映画には何が必要なのか?」ということを重視し、製作しました。なぜなら私たちは、この映画は見た人全員に歓迎されるような作品ではないと分かっていたからです。一方、大きな制作会社では、老若男女に好かれるような映画を作ることができるのです。それを理解した上で、私たちはこの映画を作りました。

──主人公は暴走してしまいましたが、偽りであってもリーダーとして人心を掌握したことになります。本来の真の指導者のあるべき姿とはどんなものだと監督はお考えになりますか?

監督:真の指導者とは、善意があり、自らが統治している人々の生活に関心を持っており、それをもとに決断を下す人だと思います。企業や他の者の利益のためではなくね。カネで人が動く民主社会では、きっと難しいでしょうが。

──日本の観客へのメッセージをお願いします。

監督:この映画を見ることで、異変がどのようにして始まり、どのような結末を迎えるのか理解してもらえればうれしいです。そして、このような欺瞞を手遅れになる前に防げるようになってほしいと願っています。

ロベルト・シュヴェンケ
ロベルト・シュヴェンケ
Robert Schwentke

1968年、西ドイツのシュツットガルトに生まれる。大学で文学と哲学を学んだ後、アメリカン・フィルム・インスティテュートの映画監督学科で美術学修士号を取得。2001年に『タトゥー』で長編監督デビュー。ジョディ・フォスター主演のサスペンス・ミステリー『フライトプラン』(05年)でハリウッドに進出。ブルース・ウィリス、ジョン・マルコヴィッチら大勢の大物俳優が共演した『RED/レッド』(10年)などのヒット作を手がける。その他、『きみがぼくを見つけた日』(09年)、『ダイバージェント NEO』(15年)、『ダイバージェント FINAL』(16年)などを監督。