1972年、オーストリア・ウィーン出身。在学中に映画賞受賞作の短編『FLORA』(96年)などを制作、2001年の長編初監督作『Lovely Rita ラブリー・リタ』(01年)、2作目の『Hotel ホテル』(04年)がカンヌ国際映画祭ある視点部門に出品された。3作目の『ルルドの泉で』(09年)はヴェネチア国際映画祭コンペティション部門に出品され、国際映画批評家連盟賞を受賞。4作目は『AMOUR FOU(原題)』(14年)、5作目の本作『リトル・ジョー』が初の英語作品となる。
人を幸福にする新種の植物“リトル・ジョー”。ヒロインのアリスは遺伝子組み換え技術によって“リトル・ジョー”を生み出した研究者だが、同時に最愛の息子ジョーを育てるシングルマザーだ。彼女は夢の花を大切に育てていたが、その花粉の影響で周囲の人々が変わっていき、息子までも奇妙な行動をとり始める。悩みのない至福の世界をもたらしてくれるはずの真紅の花は、やがて人間に侵食して心を支配していくのだった……。
第72回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選出されたジェシカ・ハウスナー監督による『リトル・ジョー』は、不穏な空気感と耽美な世界観で話題をさらい、主演のエミリー・ビーチャムに女優賞をもたらした。最先端の科学を扱いながらも懐かしさのある独創的な映像美が圧巻のサイエンス・スリラーを撮ったジェシカ・ハウスナー監督に、本作のテーマや撮影について聞いた。
監督:どんな人でも、他者やその個人でさえ完全に理解しきれない秘密を隠し持っています。私たちの中に奇妙なものが思いがけず生まれ、親しんでいたはずのものが奇異に映る。知っているはずの人が突然別人に思える。身近だと感じていたものほど遠く離れてしまう。そして、お互いを理解したいという思い、共感、共生への欲求が満たされることはなくなってしまう。そういった意味で本作は人の中に存在する奇妙なモノの比喩と言えるでしょう。
監督:観客がストーリーを解釈する上でさまざまな可能性を提供したいと思いました。人々の変化は、精神的な心理状態、または吸入した花粉の影響によるものだと説明することができます。はたまた、それらの「変化」は実は存在せず、ベラ(アリスの同僚)やアリスの妄想と考えることもできるでしょう。ジェラルディンと私は、これまでにも似たようなドラマツルギーの課題に取り組んできました。『ルルドの泉で』では、奇跡の存在もしくはその不在に説得力を持たせる必要があり、その点に注力しました。結果としてヴェネチア国際映画祭で賞を受賞することができました。
監督:働く女性は皆、多少なりとも非難めいた口調で「誰が子どもの面倒を見ているのですか?」と聞かれたことがあるでしょう。本作は、働くことで子どもを蔑ろにしてしまっているのではないかと罪悪感に苦しめられている母親の物語です。主人公は仕事と育児の間で板挟みになっています。なぜならば、花は彼女の情熱であり、創造物、労働の産物であり、“リトル・ジョー”はアリスのもう一人の子どもに他ならないからです。そのため二人の子どもへの感情が混ざり合い、蔑ろにしたり、失ったりしたくないと願いつつ、最後にアリスはどちらかの子を選ぶことになるのです。
監督:アリスは、息子ジョーと新種の花“リトル・ジョー”という2つの存在を生み出しました。まるで己の意思を持っているような“リトル・ジョー”。偶然にせよ意図的にせよ、己の意思で花粉を放出することができるこの新種の花は、アリスが遺伝子に組み込んだ繁殖不全を克服しようとしているのか? それとも人間に感染し、彼らの愛情(感情)を奪うことによって生存戦略を獲得しようとしているのか? 感染した人たちは“リトル・ジョー”に仕える身となってしまうのか? この空想的な理論を最初は歯牙にも掛けなかったアリスでしたが、それも長くは続きませんでした。
監督:色彩にミントグリーンと白、そして花の赤、極端に言えば幼稚にも見えるこの配色で、映画におとぎ話や寓話的なムードを演出しています。ここでアリスの赤いマッシュルームヘアは非常に重要なポイントで、この演出を象徴しているとも言えるでしょう。衣装は、姉であるターニャ・ハウスナーが担当しています。ターニャは私のすべての作品に関わっていて、共に独自のスタイルを作ってきました。ターニャの衣装からは、映画の時代背景を簡単に特定することはできません。そのうえ、ばかげたドレスや大きすぎるスーツなど、ユーモアを含んでいるのです。
監督:撮影監督のマルティン・ゲシュラハトと共にリアリズムの限界を超える事に挑戦しました。私たちのカメラワークは、様々な視点で遊ぶことで現実に疑問を投げかけます。観客は、断片的な要素しか見せられていないことに気付くでしょう。そして、その背後にあるもの、何がおかしいのか、見えないところで何が起こっているのか、自問を始めます。私たちのカメラアングルとストーリーテリングはこの自問を強調しています。例えば、ベラが「異変を引き起こしたのはリトル・ジョーの花粉だと思う」と言うシーンでは、カメラが彼女に近づき、そして通り過ぎます。ベラが私たちに答えを提供できる人物ではないというかのように映すことで、彼女の権威に対するわずかな失望や疑念を感じさせるのです。
監督:マヤ・デレンは、映画史を通して私に最も影響を与えた監督です。彼女の編集スタイル、ステージング、そして音楽に魅せられてきました。刺激的で、感情を生み出し、恐怖を感じることさえありますが、抽象的でもあります。見る人を引き込み、同時に押し戻すのです。そして、伊藤貞司のアルバム「Watermill」でこの3曲を聴いたとき、すぐにそれが私たちの映画のために作曲されたものだと感じました。すでに絵コンテの時点で私の頭には彼の音楽があり、どのカメラの動きにどの音楽を合わせるかもわかっていました。それもあって、撮影中は、映画のリズムやストーリーにも彼の音楽が大いに影響したと思います。
監督:英語で仕事をするのがこんなにも素晴らしいものかと驚かされました。ドイツ語では難解だったり、ふざけた感じだったりに聞こえてしまうことが、英語ではシンプルでドライな感じに表現できると感じています。私は母国語以外の言語で撮影すると本当によく集中できるので、非常に楽しいです。
監督:植物の栽培に関する研究です。食用作物の最重要テーマは、植物の耐久性と回復力の開発です。しかし、観賞用の植物においては、「香り」のような主観的なものが多くの研究の焦点となっているが面白いです。実際、このユートピアは存在します。植物の香りは人を幸せにするのです。ほとんどの場合、花は美しいもので、その香りをかいだ先には笑顔があり、それは花というアイディアそのものでもあります。花は美しく、かぐわしい。ただし研究の過程で、本当の意味での「いい香り」とは何か、わからなくなるのです。なぜなら誰もが異なる香りの好みを持ち合わせているから。そこから誰もが幸せになる香りを放つ花というアイディアが生まれました。それは、まるで錬金術の如き、科学者の紡ぐ魔法なのです。
監督:私は植物遺伝学と人類遺伝学に精通した科学者数名と脳の専門家にコンタクトを取り、植物が人間を感染させることが可能なのか、またその場合、どのようにして感染するのか仮説を立てることにしました。この繋がりを見出すのがもっとも困難でした。彼らは、ウイルスであれば可能だという仮説をくれました。ウイルスには十分な柔軟性があり、植物ウイルスからヒトウイルスに突然変異する可能性があるというのです。これが現実に起こる可能性は極めて低いものの、起こらないとは限らない。そして、この仮説がストーリーを組み立てる基礎となりました。また、脳の研究をしている神経科学者ジェームズ・ファロン氏が向精神薬を鼻から吸入できるという仮説を提唱してくれたため、これが私たちのアイディアを裏付けてくれました。
監督:オランダはとても小さな国であるにもかかわらず、草花栽培の分野で非常に専門的かつ最先端のテクノロジーを持ち合わせているのが興味深いですね。世界最大の花市場であるロイヤルフローラホランドは目を疑うほどの巨大な事業で、花を積んだ無数のコンピューター化された台車が走り回っている光景は、まるで「素晴らしい新世界」(1932年オルダス・ハクスリー著)のディストピアを彷彿とさせます。
監督:科学は常に新しい事を試みています。誰にもその結果を完璧に予測することはできませんが、それでも試みは成されるのです。本作では、花の香りを吸い込んだ当事者が幸せなのだから、発明としては成功と言えるでしょう。しかし、その代償は……。これらの矛盾や相反する状況、永遠に元に戻すことができない「ゴルディアスの結び目」(※)が私の興味を最も掻き立てるテーマなのです。
※古代アナトリアのフリギアの都ゴルディオンの神話と、アレクサンドロス大王にまつわる伝説。数百年もの間、誰もほどけなかった結び目を大王が刀で断ち切ったことから、難問を大胆な方法で解決してしまうことのメタファー「難題を一刀両断に解くが如く」(英: To Cut The Gordian Knot )として使われる(引用:wikipediaより)
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