1967年11月15日、フランス、パリ生まれ。短編『サマードレス』(96年)や長編第1作『ホームドラマ』(98年)が評判を呼び、『焼け石に水』(2000年)でベルリン国際映画祭テディ賞を受賞。カトリーヌ・ドヌーヴやエマニュエル・ベアールら人気女優が集結したミュージカル仕立てのミステリー『8人の女たち』(02年)では、8人の女優たちにベルリン国際映画祭銀熊賞をもたらした。その他の作品に、オゾン作品の常連であるシャーロット・ランプリング主演の『まぼろし』(01年)、『スイミング・プール』(03年)、『エンジェル』(07年)、フアン・マヨルガの戯曲を原作にしたサスペンス『危険なプロット』(12年)、モウリス・ロスタンの戯曲をアレンジした『婚約者の友人』(16年)などがある。
『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』フランソワ・オゾン監督インタビュー
係争中の神父による児童への性的虐待事件、その真相を被害者の視点から描く
フランスを震撼させた一大スキャンダル、「プレナ神父事件」。一人の男の告発をきっかけに80人以上もの被害者が名乗りをあげたことで、プレナ神父が長年にわたって信者家庭の少年たちに性的虐待を行ってきたことが明るみになった。この衝撃的な事件を題材に新たな作品を発表したのは、『まぼろし』や『8人の女たち』などの作品で日本でも人気の高いフランソワ・オゾン監督だ。
2016年1月に捜査が開始されたプレナ事件は、現在も係争中で、2020年3月の一審ではプレナに禁固刑5年が求刑されている。一方、オゾン監督が完成させた映画はプレナ自身から上映差し止めを訴えられたが、原告の訴えは棄却された。フランスで公開後は観客動員数91万人の大ヒットを記録、セザール賞の作品賞や監督賞など7部門にノミネートされ、被害者の一人エマニュエルを演じたスワン・アルローが最優秀助演男優賞を受賞した。
スタイリッシュで斬新でエレガントな作風を得意とするオゾン監督が、生々しい事件をどのように映画作品として昇華したのか。完成までの秘話を聞いた。
監督:当初のアイデアは、男性の脆さをテーマにした映画を作ることでした。私は強い女性を描くことが多いのですが、今回は苦悩の表情を浮かべる感情的な男性たち、人々が普段「女っぽい」とするタイプの男性を描きたくて、最初に考えたタイトルは『L’Homme qui pleure(泣く男)』でした。この考えがプレナ事件と重なったんです。被害者団体「沈黙を破る」のホームページで子ども時代に教会で性的暴行の被害にあった男性たちの証言を読みました。そのうちの一人、アレクサンドルの話にとりわけ心を揺さぶられました。彼は熱心なカトリック教徒で、40歳になってようやく被害について話せるようになるまでの苦しみを語っていました。ホームページには彼のインタビューやメディアの記事、アレクサンドルがリヨン教区の幹部たちとやりとりしたメールの抜粋も掲載されていました。これらの資料は非常に興味深く、アレクサンドルに連絡を取ったのです。
監督:彼は告訴状を出すまでにやり取りしたメールも含む資料一式を持って来てくれました。私を信頼してくれたことに感動しました。このメールの抜粋は映画の冒頭で聞くことができます。この資料をもとに、最初は演劇作品を作ろうとしましたが、やはりドキュメンタリーを撮ろうと思い直しました。アレクサンドルには何度も会いましたし、(アレクサンドル同様に被害者であり、本作の主要登場人物である)フランソワとエマニュエル、他の被害者たち、その妻子、エマニュエルの母親、弁護士たちなど、周囲の人々にも会い、ジャーナリストがするように、話を聞き、メモをとったのです。
監督:私の企画を具体的に被害者たちに話す段階になって、ドキュメンタリーの案に対し、彼らの落胆とためらいを感じたのです。彼らはすでに多数のメディアのインタビューに応じ、テレビ用ドキュメンタリーに登場していました。彼らはフィクションの監督が近づいてきたから好奇心を持ったのです。そして、映画の登場人物となって有名な俳優に演じてもらうのを夢見ていたんです。それが彼らの望んでいることであり、それが私のできることでもある。それでフィクション映画にすることを決めましたが、恐れもありました。実在の人物たちをとても好きになっていたので、彼らを映画で公正に表現する方法を見つけることができるのか不安だったのです。
監督:ドキュメンタリー映画を撮るのをやめた時点で、彼らに会う意味がなくなりました。彼らに関して明らかにする新事実はなかったからです。私が作中で描く事件の調査結果や詳細はすでにメディアやインターネットで語られています。事件そのものには手を加えていません。私にとって重要なのは子ども時代に傷つけられた男性の心の奥を語ることと、彼ら被害者の観点からストーリーを語ることでした。彼らの経験と証言には忠実でありつつ、周囲の人々やその反応については自由に描きました。だから被害者たちの姓を変えたのです。バルバラン枢機卿とプレナ神父とは反対に、彼らはフィクション映画の主人公になったのです。
監督:ごく単純に、実際に起きたことすべてからです。あるときにアレクサンドルの歩みは止まり、話は彼なしに進んでいたのです。アレクサンドルの告訴状は警部を動かし捜査が始まり、警察はフランソワに連絡をし、そしてフランソワは被害者団体「沈黙を破る」を立ち上げてエマニュエルと出会います。ドミノ倒しのような展開です。
監督:他にも多くの被害者がいる中で、3人目を選ぶのは難しいものでした。私が重要視したのは、劇作品としての展開です。登場人物たちがそれぞれ違った動揺や苦悩を抱えていることが必要でした。アレクサンドルとフランソワは裕福な家庭の出身で、伴侶と子供を得て仕事も持っていますから、3人目の主人公は社会にあまり適応できておらず、心理的にも身体的にも生々しい苦悩が見える人物がよいと思いました。エマニュエルの話をしてくれたのは、アレクサンドルとフランソワです。彼に会ってみて、強く心を打たれました。作中でエマニュエルと名付けたこの人物を描くにあたって、大きな苦しみを抱える他の被害者たちの証言も取り入れました。この人物が内なる暴力性を持ち、身体的にも苦しんでいることを見る人に感じて欲しかったのです。 てんかん患者という設定にしましたが、実際は違います。
監督:この映画がリヨンに根ざしていることは重要でした。リヨンはガリア(ケルト人の一派であるガリア人が居住した地域の古代ローマ人による呼称。現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部にわたる)でキリスト教が広まった最初の土地であり、今でも教会は非常に保守的な伝統を守っています。大聖堂はフルヴィエールの丘にそびえ立ち、街を見下ろしていますが、これは街に対する教会の影響力のメタファーでもあります。この映画の狙いは教会を罰するのではなく、教会が持つ矛盾とこの事件の複雑性を提示することでした。
監督:アレクサンドルは教会組織を尊重していますし、バルバラン枢機卿は誠実で勇敢であり児童への性的虐待を常に非難してきた人だから行動を起こしてくれるだろうと考えています。彼は枢機卿と教会のやる気を信じています。バルバラン枢機卿が祈りを捧げるシーンを撮りましたが、彼は神に助けを求めているのかもしれません。この古くなった組織を変えるのは大変なことです。習慣、保守主義、秘密主義によって身動きが取れなくなっていて、皆が自分の身を守ろうとし、誰も意味のある行動を起こすことができないのです。プレナの問題は、彼の子どもに対する振る舞いを除いては、彼は良き司祭であり、教区の信者にも上層部にも気に入られていたということです。
監督:彼のメールはとてもよく書けていて力強く、絶対に映画で使いたいと思いました。このナレーション部分は出資者を不安にさせましたけどね。この事件で驚かされるのはすべてが明白に説明されていて、事実が分かりきっているのに、行動がそれに続かないということです。この不公正さはあまりに極端で理解不能です。
監督:現実でも彼女たちの存在は重要なのです。彼女たちの支えなしに彼らがこの挑戦に挑むのは難しかったはずです。本当に闘いを共有してきました。被害者たちは沈黙の中でひどく苦しみ、言葉に出したときからこの件は常に家族に付きまとい、しまいには嫉妬心まで生み出します。フランソワの兄はこう言います。「お前の話にはもううんざりだ。親もその話ばかりだぞ!」と。観客に“沈黙を破ったこと”が引き起こしうる暴力を体験してもらい、その影響を具体的に見せたいと思いました。
監督:急いで作らないとなりませんでした。現実のニュースは流動的だし、予算面でも厳しかったからです。児童への性的虐待というテーマは人を怯ませ、この企画は「融資不可能」と判断され、多くのロケーションは使用を禁じられました(教会内部のシーンはベルギーとルクセンブルクで撮影した)。幸いにもプロデューサーたちと制作チームは企画を信じて支持してくれたので、このような反対意見やブレーキは私たちに企画を押し進める力を与えてくれました。
監督:メルヴィル・プポーとは2つの作品で仕事をしたことがありましたが、素晴らしい俳優です。それに、彼自身が信仰について考えを巡らせていることを知っていました。ドゥニ・メノーシェとも仕事をしたことがありましたが、彼のエネルギーと目に見える力強さの中には鋭敏な感性が隠されており、それがフランソワとよく合っていました。スワン・アルローに関しては、『ブラッディ・ミルク』を見て、エマニュエルを演じるのにぴったりな豊かさと脆さを感じました。プレナ役のベルナール・ヴェルレーは、この人物像にカリスマ性と力強さ、ある種の愚直さをもたらし、複雑性を表現してくれました。難しい役ですが、躊躇なく引き受けてくれました。この人物の恐ろしいところは、自分の行動の重大性をまるで意識していないように見えることです。
監督:この映画を見たある司祭にこう言われました。「この映画はもしかすると教会にとってはチャンスかもしれない。教会が映画を受け入れられれば、ようやく教会内部で起きた事件の責任を負い、その撲滅のための最初で最後の闘いを始められるかもしれない」と。そう期待しましょう!
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