『リンカーン』
スティーヴン・スピルバーグ監督がダニエル・デイ・ルイスを起用して、エイブラハム・リンカーン大統領の映画を撮ると聞けば、偉業やその一生を追った壮大な大河ドラマを期待するところだ。だが、『リンカーン』はアメリカ合衆国第16代大統領の生涯で最期の4ヵ月間に焦点を絞って描いている。
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軸となるのは、2期目の大統領選に当選後まもない1865年1月、奴隷解放実現を目的とした憲法第13条修正案を議会で可決させるという、一般にあまり馴染のない、南北戦争末期のエピソードだ。しかし、「人民の、人民による、人民のための政治」という有名な演説さえも本人の口からは発させず、派手さを排した本作は、それゆえにより純粋にリンカーンという人の本質に迫り、偉人伝を超えた人間ドラマとして、リンカーンを中心に当時を生きた人々が息づく群像劇としても、ずしりと胸に迫る。
修正案の可決には議会の3分の2の賛成が必要であり、リンカーンは票のとりまとめのためにあらゆる策を講じることを命ずる。ロビイストたちが敵対する民主党議員の切り崩しに奔走する姿はときにユーモラスに描かれる。一方で、4年目に入った南北戦争で多くの命が奪われていく現実もある。敵同士がもろにぶつかり合う肉弾戦の苛酷さがつぶさに映し出される。そして、幼い息子を亡くして以来、亀裂が生じかけた妻との関係、両親の反対を押し切って北軍に入隊し戦地を目指す長男との確執、あどけない末息子との心休まるひとときを挟み込み、リンカーンの知られざる一面も取り上げることで、偉人もまた1人の人間に過ぎないという事実を鮮やかに浮かび上がらせる。
人好きするし、本人も人間が大好き。同じ空間のなかにいる一番の弱者に目をかけるような人との接し方。リンカーンの姿にこれぞカリスマ、と思う。素朴さと意志の強さ、忍耐強さ、そして私人としての苦悩をも表現するダニエル・デイ・ルイスの名演は、前人未到のオスカー主演男優賞3冠という形で証明された。“なりきる”という言い回しには、俳優が無理している感を覚えてしまい、個人的にはあまり好きではないが、これはそう表現するよりほかないレベル。メイクなどで似せてもいるが、それ以前に、動く姿も声も現代人にとっては知り得ないリンカーンその人を知ることができた気にさせる。奴隷解放論者で急進派の共和党議員、スティーヴンスを演じる仏頂面で頑固一徹のトミー・リー・ジョーンズの対照的な存在感もいい味だ。
会話や議会での演説が大半を占める台詞劇だが、誰も言葉を発しない静寂に包まれたシーンも鮮烈に印象に残る。これが映画だ、と思う。スピルバーグの作品には、ひれ伏してしまいたくなるほどの美しさが必ずあるのだ。(文:冨永由紀/映画ライター)
『リンカーン』は4月19日よりTOHOシネマズ 日劇ほかにて全国公開される。
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