『グランド・ブダペスト・ホテル』
風景も人物も手のひらサイズの小物までも、ウェス・アンダーソン監督の作品はどれも画面に映るものすべてに細心のこだわりがある。新作『グランド・ブダペスト・ホテル』はその特性が最大級に活きる傑作だ。
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前作『ムーンライズ・キングダム』はアメリカ東部の小さな島が舞台だったが、今回は東欧の地図から消えた国で起きたという設定。前作同様、場所は架空だが、1930年代、60年代、80年代という3つの時代を行き来しながら、20世紀初頭に存在した旧ズブロフカ共和国の高級リゾート「グランド・ブダペスト・ホテル」の名物コンシェルジュ、グスタヴ・H(レイフ・ファインズ)と新米のベルボーイ、ゼロ(トニー・レヴォロリ)の物語が語られる。すっかりさびれてがらんとした60年代のホテルで、若い作家がオーナーから話を聞くという趣向だ。
精緻なドールズ・ハウスのようなセットの中で、計算し尽くされた動きを見せる俳優たち。タイトルや、アンダーソン作品の常連(主役2人を除く)が揃うキャストからは舞台をホテルに限定し、そこに集う人々を描く“グランド・ホテル形式”を想像しがちだが、さにあらず。ホテルという限られた空間から広い世界へ飛び出して行く冒険活劇だ。
メインとなる時代は1932年。グスタヴは究極のおもてなしを信条とし、完ぺきなサービスで女性客からも絶大な人気を誇り、ホテルの客の大半は彼目当てといっても過言ではない存在。ある日、彼の大親友にして上顧客の伯爵夫人殺害の一報が入る。弔問に駆けつけた彼は、なんと夫人殺害容疑で逮捕されてしまう。執事の目撃証言が決め手だというが、もちろん身に覚えのない濡れ衣。刑務所に収監されるも身の潔白を証明するために脱獄し、彼を師と慕うゼロを従えて、警察や彼の命をつけ狙う真犯人が放った刺客の追跡をかわしながら、事件の真相に迫っていく。
1つひとつ挙げていけばきりがないほど、いろいろな目配せのある映画だが、個人的に面白かったのはゼロのフィアンセで菓子職人のアガサ(シアーシャ・ローナン)が作る、クルティザン・オ・ショコラと名づけられたお菓子だ。小さなシューを3つ重ねてカラフルなアイシングで飾られたこのお菓子によく似ているのが、2段重ねのシューにチョコやコーヒーのアイシングでシンプルなデコレーションのフランス菓子・ルリジューズ。ルリジューズとはフランス語で尼僧のことだが、一方、クルティザンは寵姫を意味する。そこでクスッと可笑しくなる。こんな風に、観る側それぞれが違うツボを刺激される楽しみ方もできる。
大富豪の遺産相続をめぐるサスペンスに加えて、スラップスティック風のアクション、センスのいい美術と衣裳、可愛らしくデコレーションされたお菓子、といつものように目で楽しむ要素がいっぱいだが、今回はさらに20世紀前半の東欧(架空の国であったとしても)を描くには避けて通れない戦争という暗い影がある。きらびやかで愛らしく美しい空間が黒く寒々しいものに浸食されていく。それに対して、軽やかさを失わずに抗い続ける美学が貫かれている。
実はグスタヴは当初ジョニー・デップが演じる予定だったという。それも見てみたかったが、今となってはファインズ以外のグスタヴは想像すらできない。矜持という言葉そのもののプロフェッショナルの厳しさとエキセントリックさを絶妙に演じている。その言葉はグスタヴを追う殺し屋を演じたウィレム・デフォーにも当てはまり、ムルナウのノスフェラトゥを思い出させる異様な目つきで邪悪の塊を怪演。新星・レヴォロリとローナンの若くまっすぐな清らかさもいい。
本作では3つの時代を3つの画面サイズ(スタンダード、シネマスコープ、アメリカンビスタ)で描き分ける。そこに通底するのは無常という感覚だ。どの時代でも、もうそこにはない幻を愛おしむ切なさがある。(文:冨永由紀/映画ライター)
『グランド・ブダペスト・ホテル』はTOHOシネマズ シャンテほかにて全国公開中。
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