【週末シネマ】いまや“時代考証”は無用なのか? 力作だからこそ感じる残念さ

#週末シネマ

『るろうに剣心 京都大火編』
(C) 和月伸宏/集英社 (C) 2014「るろうに剣心 京都大火/伝説の最期」製作委員会
『るろうに剣心 京都大火編』
(C) 和月伸宏/集英社 (C) 2014「るろうに剣心 京都大火/伝説の最期」製作委員会

『るろうに剣心 京都大火編』

この仕事をしていて面白いのは、本来の好みではない映画を仕事として見て、思わぬ発見をしたり、視野が広がったりすることだ。昭和の映画黄金期に作られた時代劇好きとしては、『るろうに剣心』シリーズはいろいろ違和感を覚える。それでも、こだわりを捨ててエンターテインメントとして向き合うと、作り手側の意気込みが映像に凄まじい気迫をもたらしていることは認めざるを得ない。

【週末シネマ】超一流の社会派エンターテインメントに仕上がったハリウッド版ゴジラ

シリーズ累計5800万部を超える大ヒット作で、世界20カ国以上で読まれている和月伸宏の原作コミックを、その超人的なスピード感まで見事に実写化した前作『るろうに剣心』公開から2年。大友啓史監督、佐藤健主演のコンビが原作シリーズでも特に人気の高い「京都編」を『京都大火編』『伝説の最期編』という2部作として撮影、まずは『京都大火編』が完成した。

かつて“人斬り抜刀斎”と恐れられた主人公・緋村剣心と、彼の後継者であり、幕末から明治へと時代が変わるなかで自分を裏切った新政府転覆を企てる志々雄真実の対決の物語は、“不殺の誓い”と崩壊の危機に瀕した国を救う使命との間に引き裂かれる剣心をスリリングなアクションと重厚なドラマで描いていく。

キャストが素晴らしい。大作を背負って立つ剣心役の佐藤健はもちろん、志々雄(藤原竜也)、瀬田宗次郎(神木隆之介)、四乃森蒼紫(伊勢谷友介)、元隠密御庭番の翁(田中泯)、そして斉藤一(江口洋介)らが繰り広げる闘いの数々はどれも鬼気迫るもので、綿密かつ大胆なアクションと場所やセットの工夫、役者同士のエネルギーが火花を散らすのが見て取れるようだ。そして彼らは、膨大な情報量の原作を2時間強の上映時間にまとめる脚本では拾いきれない細部を、佇まいで補ってみせる。それだけに、物語を進めるために人物像がぶれるように感じられる描写が散見するのは惜しい。

そして、これは好みの問題になってしまうが、前作と同様に登場人物たちの言動があまりにも現代人と変わらないことには正直、興をそがれる。もっともこれは本作に限った話ではなく、もはや時代考証は無用とされているのかという疑問は、時代劇を見ていても、朝ドラを見ていても、つねに感じることだ。

人間の根本には時代を超えた普遍性は確かにある。だが、時代ごとに違う価値観も確かにあり、それに基づく史実があり、それを無視してしまうのは残念なことではないか。型破りのための“型”がない状態では、カタルシスがない。

大友監督は、本作について時代劇ではないという認識で臨んだという。ワイヤー・アクションで宙を舞い、ものすごい速さで動き回り、斬りまくるのは全然OK。チャンバラではなくソード・アクションと呼ぶのは縦のものを横にしただけのようだが、それもいいだろう。ただ、確かに髷をつけた江戸時代の話ではないが、ここはもう少し観客を信頼して、不条理さなども含めてその時代らしい空気を感じさせてもらいたかった。それともこれは原作に忠実であろうとするゆえだろうか。

監督が確固たるスタイルの持ち主であることは、これまでの監督作に一貫する個性からはっきり見て取れる。それは『ハゲタカ』や『プラチナ・データ』のような、現代あるいは近未来を舞台にした場合にむしろ説得力が増す気がする。もちろん、映画は歴史を学ぶ教科書ではない。作法やリアリズムにとらわれない新しいソード・アクション・エンターテインメントとして、『るろうに剣心 京都大火編』はその役割を見事に完遂している。(文:冨永由紀/映画ライター)

『るろうに剣心 京都大火編』は8月1日より公開中。

【関連記事】
【映画を聴く】『るろうに剣心』シリーズを引き立てるONE OK ROCKの音楽
【週末シネマ】軽妙で真面目で優しい、人生の機微を描いたチャーミングなラブコメディ
【週末シネマ】ただただ恐ろしく、そして色っぽい浅野忠信。問題作で見せる40歳の魔力
『るろうに剣心』佐藤健インタビュー