『毛皮のヴィーナス』
なんと濃密な96分。古い劇場の中に2人きりという限られたシチュエーションで、官能とブラックなユーモアに満ちた男女の攻防を描く『毛皮のヴィーナス』はロマン・ポランスキー監督が妻のエマニュエル・セニエをヒロインに起用したコメディタッチの心理劇だ。
舞台はパリの古ぼけた劇場。演出家のトマが帰り支度を始めたところに、土砂降りの雨でずぶ濡れになった女優・ワンダが駆け込んでくる。マゾヒズムの語源にもなった作家、マゾッホの原作を脚色した戯曲「毛皮のヴィーナス」のオーディションに遅刻したのだ。にも関わらず強引に自分の芝居を見せようとする彼女はとんでもなく図々しいばかりか、教養の欠片もなさそう。だが、衣裳まで自前で調達し、毛糸のショールを毛皮に見立てて台詞を口にした途端、がらりと雰囲気を変える。この変身は本当に鮮やかで、まるで私たち自身がトマになった気分でハッとさせられる。この女、ただ者ではない。スノッブな説明に「それってこういうこと?」と、くだけた表現でより核心に迫る解釈を提示する。相手の1歩も2歩も先を読み、翻弄し、あっという間にひざまずかせる。
ワンダ流に安っぽく言い換えれば、ギャップにやられるという手垢のついた表現になるだろうか。だが、戯曲のヒロインになったかと思うと素に戻る、その繰り返しをまるで右から左へ向く程度の自然さで、苦もなく表現する。ポランスキーの奥さんという印象しかなかったエマニュエル・セニエって、こんなすごい女優だったのか、と驚嘆する。映画の中と現実の世界で、同じ驚きを共有するというえも言われぬ体験をした。
セニエの魅力を引き立てるのは、傲慢で神経質な演出家・トマを演じるマチュー・アマルリックの力も大きい。ミステリアスな悪役から、ワンダのごとく事態をかく乱する役どころまで幅広くこなす演技派の彼は、風貌もどことなく若き日のポランスキーに似ている。そんな面白い偶然も武器に、頭でっかちのインテリがいつの間にか被虐に酔いしれる哀れにして滑稽な様を見せてくれる。
台本を片手に相手役として台詞を読むうち、驚くほどあっさりと魅了されていくトマと、役を超えてトマを支配していくワンダ。演出家と女優の間に明らかにあった主従関係の逆転から、虚と実の曖昧さ、フェミニズムにまで物語は広がりを見せる。そのテンポの良さ。2時間超どころか3時間に到達するかという作品がザラな昨今、ポランスキーの、無駄だけを削ぎ落とす豊かな表現は至芸だ。師走の忙しなさから束の間の非日常への逃避にもふさわしい珠玉作。(文:冨永由紀/映画ライター)
『毛皮のヴィーナス』は12月20日より公開中。
冨永由紀(とみなが・ゆき)
幼少期を東京とパリで過ごし、日本の大学卒業後はパリに留学。毎日映画を見て過ごす。帰国後、映画雑誌編集部を経てフリーに。雑誌「婦人画報」「FLIX」、Web媒体などでレビュー、インタビューを執筆。好きな映画や俳優がしょっちゅう変わる浮気性。
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