マーティン・スコセッシ、ウディ・アレン、スパイク・リーらそうそうたる監督らを輩出したニューヨーク大学映画科。映画界での成功を夢見る人々が世界中から集まる名門学科だ。一説にはハーバードよりも難しいと言われるこの学科を卒業した中村真夕監督が、合格までの過酷な道のり、そして学校での学びについて綴ったエッセイの第1弾。
【ニューヨーク大学映画科で学ぶということ1】ニューヨークは多くの人の憧れの街だが、サバイバルの街でもある。多くの人が夢を抱いて世界中から集まってくる。だからこそ生き残るのがハードな街でもある。物価は高く、家賃は世界一位と言っていいほど高い。ウォール街でリッチになる夢を抱く人、ブロードウェイのスターになることを目指す人、移民でやってきて、子どもたちに少しでもいい生活をさせてやりたいと願う人。夢を叶えた人、目標を見失って、転落した人も両方見てきた。私にとっての夢は映画だった。
NY大学に憧れるも2度の失敗、そして…
私の夢は、ニューヨーク大学大学院の映画科で映画を勉強することだった。そこはスパイク・リー、アン・リー、ジム・ジャームッシュなど、アメリカを代表する監督たちが卒業したことで知られ、最近では「ノマドランド」でアカデミー賞を受賞をしたクロエ・ジャオ監督、「ノータイムトゥダイ」などで知られるケリー・フクナガ監督を輩出した学校としても知られている。でも、そんな簡単に入れた訳ではない。3度受験して、やっと3度目で入学できたのだ。
・「おばさんのエロは気持ち悪い」に奮起、気鋭監督が“おばさん主人公”の映画を作った理由とは?
中学生の頃から映画好きで、高校時代から映画監督になりたいと思っていた。そういう意味では人より早く自分のやりたいことが見つかった方かと思うが、人一倍努力はしてきたつもりだが、不器用で中々、思うように映画が作れない状態が何年も続いて、やっと今になって自分の作りたい映画が作れるようになってきた。
ロンドンからニューヨークへ
私は中学生の頃に映画に目覚め、デレク・ジャーマンやアンドレイ・タルコフスキーの映画に心酔して、高校時代から8ミリで映画を撮り始めた。その後、ロンドン大学に進学し、映画研究会に入った。当時の先輩に今、ハリウッドで大活躍しているクリストファー・ノーランがいた。彼はもう大学を卒業していたが、大学の機材を使って短編などを撮っていた。当時からもう監督然とした若干、傲慢な感じ?の人で、もちろん才能もあったが、「監督は自分を監督と呼ぶことから始まる」ということを私に教えてくれた人だった。
ロンドン大学を卒業後、ニューヨークに渡り、独学で映画を勉強し始め、16ミリで短編映画を撮り始めた。アメリカに渡った一年目にニューヨーク大学大学院を受験した。しかし書類選考で落とされた。でも私は夢を諦められなかった。一年間、働けるビザがもらえたので、日系のテレビ制作会社に入って、次の受験を目指した。私が監督を目指しているのを知って周りの男性スタッフから嫌がらせを受けた。「女性は監督になれない」、「女性ディレクターはロクなのがいない」そんなことを言われた。でも人一倍、負けず嫌いな私は、当時から人にバカにされたり、悔しいことがあったら、自分を磨いて「倍返しをする」というポリシーで生きてきた。「他人に自分の限界を決めさせない。いつか監督になって見返してやる」、そう思って二度目の受験への準備を始めたのだった……。(text:中村真夕/映画監督 『親密な他人』『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』ほか)
・「ニューヨーク大学映画科で学ぶということ 2/ニューヨーク大学映画科で学ぶということ2/50、60代の同級生も。多彩な学友たちとの切磋琢磨」(8月25日掲載予定)に続く
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