マチュー・アマルリック監督の最新作『彼女のいない部屋』
【週末シネマ】フランスの地方の街で夫と子ども2人と暮らす女性がある日突然、家族を残して家を出る。理由も明かされないまま、残された家族はもちろん観客も、“彼女のいない”世界と向き合うしかない。だが、それは1人で旅を始めた彼女=クラリスも同様だ。性格俳優としても活躍するマチュー・アマルリック監督の最新作『彼女のいない部屋』は、ある女性の逃避行と彼女がたどり着く先を描く。
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見えているもの聴こえているものは現実なのか? 幻想なのか?
夜明け前、クラリスは家族の寝顔を見てから、家を後にする。ピアノが得意な長女だけは母と目を合わせるが、無言で彼女を見送った。たった1人で車に乗って旅立つ主人公を追う描写と、母親の消えた家で戸惑いや喪失感と戦いながら暮らす父親と娘と息子の描写が絡み合いながら物語は進んでいく。
全てを捨ててやり直そうとしたはずなのに、夫や子どもたちを忘れられずに案ずる彼女は、離れている娘に、息子に、夫に語りかける。テレパシーで交信するかのごとく、その声は彼らにも届いているようだ。
時系列が複雑に往き来し、クラリスを含めて、登場人物の誰かが嘘をついているようであり、誰もが本当のことしか話していないようでもある。その目に映るものは、聴こえるものは現実なのか幻想なのか。主人公とその伴侶が長年、1970年代の赤い車に乗っている偶然に、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』を思い出した。
役に説得力を持たせるヴィッキー・クリープスの名演
主演のヴィッキー・クリープスは、ダニエル・デイ・ルイス主演の『ファントム・スレッド』(17年)で主人公のミューズとなる女性を演じて注目され、今年のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門で最優秀演技賞(『Corsage(原題)』)を受賞した注目の女優だ。人間が持つ鈍感さと敏感さ両極の表現が巧みだが、本作でも柔らかな笑顔の下で不穏に揺れるクラリスの内面を圧倒的な説得力で演じている。
バラバラになったパズルのピースを1つずつはめていくような展開で、ある程度まで進むと、物語の全容が見えたかに思える。だが、それさえ確信は持てない。ただ、これは観客を騙そうとする映画ではない。ミスリードで驚かせるのが主眼ではなく、重要なのはやがて明かされるものへと至る道筋だ。クラリスの行動は、何かを疑いながら、あるいは嘘だとわかっていても目の前の映像を信じる映画の観客のようである。同時に、彼女はその映画の作者でもある。
上演されることのなかった戯曲を映画化
クロディーヌ・ガレアが2003年に発表し、一度も上演されることのなかった戯曲「Je reviens de loin」(重病や危険などから危うく助かる、の意)を自ら脚色したアマルリックは、フランシス・フォード・コッポラの『雨のなかの女』(69年)をはじめ、ダグラス・サークやニコラス・レイ、マノエル・ド・オリヴェイラなどの作品を参考に、春、秋、冬の3つの期間に分けて撮影し、映像ならではの形で物語を表現した。
映画のタイトルは音楽からインスピレーションを得たという。原題『Serre moi fort』(私を強く抱きしめて)はフランスの歌手、エティエンヌ・ダオの「La Nage Indienne」の歌詞の一節「Serre-moi fort」から取っていて、フランス語の綴りでは必要とするハイフンを抜いた表記の意味も深読みしたくなる。謎を提示されると解きたくなってしまう本能を刺激され、謎の向こうにある美を経験できる作品だ。(文:冨永由紀/映画ライター)
『彼女のいない部屋』は、2022年8月26日より全国順次公開中。
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