(…前編より続く)前編の冒頭でも触れたように、本作『あの日のように抱きしめて』ではドイツの作曲家、クルト・ワイルの「スピーク・ロウ」という楽曲が繰り返し使用される。もともとクラシックの作曲家志望だったワイルだが、劇作家のベルトルト・ブレヒトと組んだ音楽劇『三文オペラ』の大ヒットを受けて次々と音楽劇を手がけるようになり、後年はニューヨークでブロードウェイ・ミュージカルの作曲家として大成することになる。いまやジャズ・スタンダードとして知られる「スピーク・ロウ」は、1943年の『ワン・タッチ・オブ・ヴィーナス』というミュージカルのために書かれた楽曲で、歌詞はアメリカの詩人、オグデン・ナッシュによるものだ。
・【映画を聴く】(前編)クルト・ワイルの名曲にのせて描かれる、せつなすぎる夫婦の結末。『あの日のように抱きしめて』
ワイルもまたユダヤ人ゆえにナチスからの圧力で亡命を余儀なくされた人物であり、クリスティアン・ペッツォルト監督にとって彼の音楽を使うことは、ある種の必然だったに違いない。男女の愛のはかなさを歌った「スピーク・ロウ」の歌詞はそのままネリーとジョニーの関係性に呼応しており、物語を象徴するモチーフとして各シーンで重要な役割を果たしている。
中でもネリーが友人のレネとの食事中にSPレコードで聴いているヴァージョンはひと際印象的だ。これはクルト・ワイル本人がピアノを弾きながら歌ったヴァージョンであり、曲のことを知り尽くした作者ならではのクールで深みのある歌と演奏を聴かせる。終盤に出てくるネリーの歌とジョニーのピアノによる「スピーク・ロウ」が本作最大の見せ場であることは間違いないが、そこでのネリーの歌はある意味でワイル自身の歌と真逆にあるような情感に満ち溢れたもので、その落差もまた興味深い。ちなみに本作では「スピーク・ロウ」以外にもコール・ポーターの「ナイト・アンド・デイ」などいくつかのジャズ・スタンダードが使用されているが、ワイルの楽曲では他にも「光の中のベルリン」が使用されている。
セロニアス・モンク、ビル・エヴァンス、サラ・ヴォーン、ビリー・ホリデイ、ボズ・スキャッグス、トニー・ベネット&ノラ・ジョーンズなどなど、ジャズ・スタンダードとして膨大な数のカヴァーが存在する「スピーク・ロウ」だが、本作に感銘を受けたならぜひとも聴いてほしいのが、シャロン・フリーマンのアレンジでアメリカ人ベーシストのチャーリー・ヘイデンが吹き込んだ1985年のヴァージョンだ。
プロデューサーのハル・ウィルナーが制作したワイルのトリビュート・アルバム『Lost in Stars 〜星空に迷い込んだ男〜クルト・ワイルの世界』に収録されたこのヴァージョンは、ヘイデンのベース・ソロにフリーマンのピアノとオーケストレーションが重なるもので、ヴォーカルのメロディをヘイデンのベースが担っている。歌詞があってもなくても楽曲から受ける物悲しい印象は変わらないことを教えてくれる素晴らしいテイクで、本作のトーンにもどこか通じるものがある。(文:伊藤隆剛/ライター)
『あの日のように抱きしめて』は8月15日より公開。
伊藤 隆剛(いとう りゅうごう)
ライター時々エディター。出版社、広告制作会社を経て、2013年よりフリー。ボブ・ディランの饒舌さ、モータウンの品質安定ぶり、ジョージ・ハリスンの趣味性、モーズ・アリソンの脱力加減、細野晴臣の来る者を拒まない寛容さ、大瀧詠一の大きな史観、ハーマンズ・ハーミッツの脳天気さ、アズテック・カメラの青さ、渋谷系の節操のなさ、スチャダラパーの“それってどうなの?”的視点を糧に、音楽/映画/オーディオビジュアル/ライフスタイル/書籍にまつわる記事を日々専門誌やウェブサイトに寄稿している。1973年生まれ。名古屋在住。
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