ちょうど5年前の秋、ホウ・シャオシェン監督が来日して関西で映画を撮っているという噂を耳にした。その後、続報を聞かないまま、あの映画はどうなったのだろうと思っていたところ、いつの間にか完成していた『黒衣の刺客(こくいのしきゃく)』が5月にカンヌ国際映画祭へ出品され、コンペティション部門の監督賞に輝いた。
ホウ・シャオシェンにとって、初の武侠映画だ。主人公は唐の時代、幼い頃に女道士に預けられて修行を積み、刺客に成長した女性・インニャン。暗殺するよう命じられた横暴な有力者・ジィアンは彼女のかつての許婚だった……というあらすじだけ押さえて、ただひたすらスクリーンを見つめてもらいたい。まばたきする一瞬も惜しく思える美しさだ。
何年かに1度、こういう新作に出会うことがある。ただ見て、聴く。その喜びに耽溺する。人物の動きや息づかい、視線のやりとり、動物の動きはもとより、木漏れ日や木々のざわめき、ろうそくの炎や何層にも重なる薄い布といった無機物までが生き物のように映し出され、動く画の美がしみじみと胸を打つ。台詞よりも映像が語るということなのだ。それも、アクロバティックな動きを見せるのではなく、息を殺してじっと何かを見つめる境地に誘い込む。これはもう、映画を見るうえで最高の状態ではないか。
撮影は1985年の『童年往時 時の流れ』以降、ほとんどのホウ作品を手がけてきたリー・ピンビン。ウォン・カーワイ(『花様年華』)や日本の行定勲(『春の雪』)、是枝裕和(『空気人形』)、トラン・アン・ユン(『夏至』『ノルウェイの森』)といった監督たちとも組んできた名匠とホウ監督の阿吽の呼吸は至宝と言うほかない。
主演は侯監督の『百年恋歌』(2005年)でも主演を務めたスー・チーとチャン・チェン。2人の抑制された佇まいが、むしろ豊かに観客の視覚を刺激する。妻夫木聡が、元遣唐使でヒロインを助ける日本人青年を演じる。3者とも実際は大スターだが、抑えた演技で作品の素材という立場に徹する時こそ、ひそやかなスター・オーラが効くのだと思わされる。
美しいものを見て、沈黙や微かな音を聴く。別世界に浸れる108分間だ。(文:冨永由紀/映画ライター)
『黒衣の刺客』は9月12日より公開。
冨永由紀(とみなが・ゆき)
幼少期を東京とパリで過ごし、日本の大学卒業後はパリに留学。毎日映画を見て過ごす。帰国後、映画雑誌編集部を経てフリーに。雑誌「婦人画報」「FLIX」、Web媒体などでレビュー、インタビューを執筆。好きな映画や俳優がしょっちゅう変わる浮気性。
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