都合良く使われる“演技論”は疑ってかかるべき ろう者役を聴者が演じる意味を考えたい

#LOVE LIFE#日本映画界の問題点を探る#日本映画界の問題点を探る/世界標準から周回遅れの状況を変えるために#深田晃司

砂田アトム
『LOVE LIFE』に出演したろう者の俳優・砂田アトム(左)
砂田アトム
深田晃司

『LOVE LIFE』ではろう者俳優のオーディションを開催

【日本映画界の問題点を探る/世界標準から周回遅れの状況を変えるために 2】2016年に『淵に立つ』で第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞して以来、いまや国際的な注目を集めるようになった深田晃司監督。昨年も最新作『LOVE LIFE』が第79回べネチア国際映画祭コンペティション部門に選出されるなど、大きな反響を呼んだ。本作で深田監督がこだわったのは、ろう者である主人公の元夫に当事者であるろう者の俳優をキャスティングすること。しかし、その裏では複雑な事情もあり、一筋縄ではいかなかったと振り返る。

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「東京国際ろう映画祭からワークショップの依頼を受けたことで、手話が日本語や英語などと同じように豊かな独立した言語であることを知り、『LOVE LIFE』ではろう者の俳優に向けたオーディションをすることにしました。ただ、製作陣からはやはり一定数聴者の俳優を推す声はあり、理由はろう者の俳優を起用する上での現場での経費負担への不安や、実績のある俳優、知名度の高い俳優にお願いしたい、など様々でした」

そういった事態を引き起こす背景の一つには、映画が持つ経済的リスクがある。それだけに、キャスティングにも製作委員会や配給会社の意向が大きく反映されてしまうと話す。

「映画表現の特徴として挙げられるのは、ほかの表現分野よりもお金がかかること。1本の映画を作るのに、少なくても数千万円、多い場合で何十億円とかかってしまうような世界ですから。しかも、日本は助成金のシステムが非常に弱いということもあり、どうしてもビジネスの要素がより強まってしまう。それは当然、キャスティングや作品の内容にも大きな影響を与えます。その結果、『ある程度名の知られている俳優じゃないと収益が見込めない』とか『ろう者の俳優が入ると時間や予算がよりかかるのではないか』といった理由から、ろう者当事者がメインの役のキャスティングから外されていきます。メインキャストでなければ、興行や現場での影響も少なくなります。特に根深いと思うのは、『これまでもマイノリティの役をそうではない俳優が演じて高く評価されてきたし、俳優は誰でも演じられるのだから、演技の可能性を信じましょう』といったような意見です。聴者の俳優にろう者を演じさせる最大の理由は、往々にして経済的なリスク回避ですが、その点は語られないまま、ろう者にキャスティングの扉が開かれてこなかった不平等、その根底にある商業主義や構造的な差別を正当化するために芸術論や演技論が使われてしまう。映画業界ではこういうことがずっと繰り返されてきました」

しかも、聴者をろう者としてキャスティングすると、その選択を否定できなくなってしまうので、監督やプロデューサーは、ろう者がろう者を演じない現状のやりかたを正当化する言葉——演技論や芸術論を取材などで繰り返し述べることになってしまう、とも付け加える。だからこそ、このタイミングで当事者を起用したことには意味があったという。

「今回、『LOVE LIFE』でろう者の俳優である砂田アトムさんを起用していなかったとしても、それはそれでそれなりに評価されていた可能性もあったかもしれません。なぜなら、映画祭も評論家も観客のマジョリティは聴者であり、聴者を主体とした価値基準を持っているからです。でも、もし当事者を起用しなかった作品がもし評価を得たとすれば、おそらくこの先数年に渡ってろう者の俳優のキャスティングへの不平等に大きな影響を与えてしまうことにもなったでしょう。その作品の存在自体が前例として、ろう者の役にろう者当事者をキャスティングをしない一つの言い訳として使われていくことになるからです。その作品がヒットしたり俳優が賞を取ったりすればなおさらです。そういう意味でも、マイノリティの俳優への機会の不平等があるなかで、「次にやります」では遅くて、自戒を込めて、当事者の俳優のいるマイノリティの役のキャスティングの持つ責任は、それほどに重いものだと思います」

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事前に懸念していたこともあったというが、実際にはすべて杞憂に終わるほど現場はスムーズに進んだと明かす。

「僕もスタッフもろう者の俳優と一緒に映画を作ったことがなかったので、何が起きるかわからない不安があったのは事実。たとえば、『手話通訳が入ることでコミュニケーションが上手く取れないのではないか』とか『撮影時間が伸びてしまうのではないか』とかといった心配がいくつもありました。でも、通訳に関してはほぼ同時に行われていたので、時間のロスはさほどありませんでしたし、砂田さんが非常にプロフェッショナルで明るい方だったので、ムードメーカーになっていただいたほど。特に、何の問題もなく撮影することができました」

深田監督が自身の経験を語ることは、ろう者の俳優たちが抱える不平等を無くしていく大きな後押しになることは間違いない。しかし、俳優がマイノリティの役を演じると難しい役に挑戦したと評価されやすくなる現実がいまの状況を加速させる要因にもなっていると語る。とはいえ、決して俳優の力を否定してるわけではない。

「原則として俳優はどんな役だって演じることができるので、演技の可能性という意味では間違ってはいませんし、俳優は演じることで他者性を学んでいくこともあると思います。ただ、少なくともろう者の役に限って話をすると、そもそもろう者の俳優に対してオーディションが十分に開かれてこなかった。大きな不平等があるなかで、それを覆い隠すための言い訳としてそういった演技論を用いるべきではないと強く感じています。いつか将来、ろう者の役をろう者の俳優が演じることが当たり前になったときに初めて、『ろう者の役をあえて聴者が演じることの意味』についての演技論が語られたりするのであれば、まあ良いのかも知れませんが、いまはまだその段階ではないと思っています」

一方で、すべてのことが当事者としてひとくくりに語られることに対しては、危機感を抱いている、と語気を強める。

深田晃司

日本初となるろう者・難聴者を対象にした「デフアクターズ・コース」の様子

「繰り返しになりますが、いまの話はあくまでも私が知っている範囲でのろう者に関してであって、例えば民族やジェンダーに関することなど、すべてを“マイノリティ”として一緒くたにして語るべきではありません。社会的に置かれている立場や属性、差別の状況など、一つ一つ違うので、当事者をキャスティングするかどうかの判断については、それぞれに対して丁寧に向き合っていく必要があると思います。ときにはアウティングの強要や誘発につながる結果になりかねません。一方で、アメリカでは、ほんの100年前はまだ白人が黒塗りをして黒人を演じていた時代がありましたが、黒人の役には黒人の俳優を起用するのが当たり前となったいま、そんなことをあえてする人はいませんよね。おそらく昔はそれを正当化する言葉がたくさんあったはずですが、当事者をキャスティングしないために使われる演技論というのは疑ってかからないといけないと感じています」

そんななか昨年の11月には、深田監督は日本初となるろう者・難聴者を対象にした「デフアクターズ・コース」に講師として参加。個性豊かな受講者とともに、さまざまな演技表現に取り組んだこともあり、ろう者の俳優が持つ魅力と実力をもっと伝えていきたい気持ちも高まる。

「そもそも日本は、聴者の俳優教育も各国に比べると非常に弱いところがありますが、ろう者の俳優に関しては聴者にとってその存在自体が知られていなかった。でも、今回は定員をはるかに上回る方が応募が届きましたし、これほど豊かで個性的な俳優たちがいたのかということに僕自身、無知であったしとっても大きな出会いだったなと。聴者とろう者では言語も表現方法も違いますが、その違い自体がとても豊かであって、でも根本にある表現の面白さは同じだとも思いました。こういった講座が始まったこと自体、本当に素晴らしいことだと思います」(text:志村昌美)【3 世界を席巻する韓国映画界、助成金の審査基準には日本の官僚主義ではあり得ない項目が!(2023年1月28日掲載予定)】に続く

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