(…前編「これまでの是枝作品のトーンを踏襲」より続く)
【映画を聴く】『海よりもまだ深く』後編
“なりたかった大人”になれなかった人への愛情
主題歌の「深呼吸」は、ハナレグミ=永積タカシが主人公の良多の気持ちに自分を重ね合わせて書き上げたという楽曲で、物語の世界観がグッと凝縮されている。ハナレグミとしては7年ぶりのシングルであり、そのMVを是枝監督が撮り下ろしていることも見逃せない。主人公の良多の興信所での相棒、町田を演じる池松壮亮をフィーチャーし、劇中のシーンと新たに撮影されたシーンを組み合わせたスピンオフ的な内容になっている。
もうひとつ、この映画で重要な役割を果たす楽曲がテレサ・テン1987年のシングル曲「別れの予感」だ。2008年の『歩いても 歩いても』のタイトルが、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」の歌詞の一節“歩いても歩いても小舟のように私はゆれて”(作詞:橋本淳)から引用されていたように、本作のタイトルはこの曲の“海よりもまだ深く 空よりもまだ青く”(作詞:荒木とよひさ)というくだりから引用されている。
劇中、小さなラジカセでこの曲を聴いた良多の母、淑子(樹木希林)が呟く「海よりも深く人を好きになったことなんてない。だから生きていける」という意味の言葉は、本作に散りばめられたさまざまな「こんなはずじゃなかった」という思いを見事に代弁している。樹木希林が発することで、その言葉の重みが何倍にも膨れ上がって感じられるところがまた凄い。なお、先述のハナレグミの主題歌「深呼吸」のシングルには、カップリングとしてこの曲のカヴァーが収録されている。バンド・アレンジによるサウンドに仕上がっているそうなので、5月25日のリリースを楽しみにしたいところだ。
これまでの是枝作品と同様、この『海よりもまだ深く』にはドラスティックな展開や分かりやすい泣きのポイントが用意されているわけではない。どこまでも平熱でオフビートな日常が淡々と続く。主人公の良多をはじめ、劇中には“なりたかった大人”になれた大人はほとんど出てこないし、結末で彼らが形ある幸せを掴むわけでもない。ただ、現実に絶望してしまわず、かすかな希望に向かって何かしらの行動を起こす彼らの姿を撮る監督の視線は静かな愛情に溢れている。ハナレグミやテレサ・テンの歌声はそんなささやかな人生讃歌の伴奏であり、その歌声もまた登場人物たちへの愛情に溢れている。(文:伊藤隆剛/ライター)
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