【映画を聴く】『淵に立つ』前編
物語の鍵となる曲はエルメンライヒの「紡ぎ歌」
英題が『Harmonium』というだけあって、深田晃司監督の『淵に立つ』はオルガンの音色が随所で印象的に使われる。
まずは冒頭。メトロノームの刻むテンポに合わせ、足踏みオルガンでエルメンライヒの「紡ぎ歌」を弾く小学生の娘と、その娘に早く朝食を食べるよう促す母親。日本の一般的な家庭ならアップライト・ピアノを弾いている方が自然に思えるが、食卓に着いた2人が「アーメン」と食前の祈りを唱えることから、見る者は母との教会通いがきっかけで彼女がオルガンを始めたのだと推測できる。その間、父親はずっと新聞から目を離すことなく、無表情に箸を口に運び続け、2人のやり取りにはまったく目を向けようとしない。
そんな家族の生活にいきなり入り込んできた、浅野忠信の演じる八坂という謎の男。夫の利雄(古舘寛治)の古い友人だと聞かされてもなかなか信用できない妻の章江(筒井真理子)だが、八坂の礼儀正しい振る舞いや、クリスチャンとしての自分の信仰にも理解が深いという思い込みから、次第に心を許していく。ここでもきっかけになるのはオルガンだ。八坂は娘の知らない曲をたどたどしくも正確に弾いて見せ、彼女に懐かれると同時に章江の警戒心をも解くことに成功する。
物語は中盤で大きく転調。大きな“傷”を残して姿を消した八坂を捜し、家族は山深い集落を訪れる。車を停め、興信所が寄せてきた心もとない情報だけを頼りに聞き込みを始める家族の耳に飛び込んできたのは、かつて八坂が娘に弾いて見せたあの曲の旋律だ。音色はオルガンではなくピアノに変わっているが、その旋律が鳴り響いた瞬間、利雄と章江は8年前の思い出したくない光景を思い出すことに。劇中、音楽が使われる箇所は数えるほどしかないものの、物語との有機的な結びつきという点でそれらは実に効果的で、謎の多い八坂の人間性にさらなる深みを与えている。
冒頭で娘が弾いていた「紡ぎ歌」は、エンディングでも形を変えて再び登場する。こちらはピアニストの豊田裕子が東伊豆町トヨダミュージックサロン所蔵の貴重な足踏みオルガンを弾いた音源で、サウンドエフェクトによりとても深いエコーが加えられている。もともと残響成分が少なく、極めて素朴かつデッドな足踏みオルガンの音色が、ここでは深く暗い淵の底で反響したこだまのように聴こえ、夢とも現実とも分からない、不思議な後味を残す。
後編「第2の宇多田ヒカル!? 音楽サラブレッドHARUHIの歌も〜」に続く…
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