『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』
目に映るもの、耳に聴こえる音すべてが必然
3時間56分、一瞬たりとも目を離せない。今は亡き台湾の名匠、エドワード・ヤン監督が1991年に撮った『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』が25年ぶりにデジタルリマスター版で蘇った。1961年に台北で実際に起きた少年による少女殺人事件がモチーフとなった本作は、事件当時14歳だったヤン監督が自己投影したような主人公を中心に据え、60年代台湾へのノスタルジアと同時に、どの世界のどの時代にも通じる普遍的な感覚を共存させている。
・チャン・チェン主演! まばたきする一瞬も惜しく思えるほど美しい珠玉作
舞台は60年代初頭の台北。主人公は受験に失敗し、夜間高校に通い始めた14歳の少年・張震。だが、みんなからは5人きょうだいの4番目ということで小四という愛称で呼ばれている。両親は1949年に上海から台湾はやって来た外省人だ。学校には仲のいい友人もいるが、彼らが属する不良グループに入るわけでもなく、どこか孤独な小四はあるきっかけで同級生の少女・明と知り合い、淡い恋心を抱くようになる。
小四を演じたのは、これが映画初主演だったチャン・チェン。ウォン・カーウァイやホウ・シャオシェンの作品、『グリーン・デスティニー』、『レッド・クリフPart1 & Part2』などの大作や日本映画でも活躍する彼は、当時ほとんど演技経験がないにも関わらず、多感な少年を演じきった。彼や明役のリサ・ヤンを始め、若いキャストには演技未経験者が多く、チャンによると、ヤン監督はプロの俳優(劇中で小四の父を演じたのはチャンの実父でもあるチャン・クオチュー)たちとは全く異なる演出をしたという。小四ではないチャン・チェンにショックを与えて生じる感情をそのまま活かす手法は、時に役を忘れているとしか思えない反応を引き出すが、その素直な表情は結局小四の個性として成り立つ。出演作はこの1作のみのリサ・ヤン、5年後に同じヤン監督の『カップルズ』でもチャン・チェンとつるむ男の子たちを演じた同級生役のワン・チーザン、クー・ユールンらのみずみずしい輝き、もう少し年上の不良グループのメンバーたちが放つ殺気。どれも奇跡のように完璧だ。
何気なく流れていく日常の描写が後の伏線になっている。没個性の象徴である学校の制服や生活音に至るまで、目に映るもの、耳に聴こえる音すべてが必然という、無駄なこれ見よがしのないさりげなさが見事だ。
もう1つ大きな役割を果たすのが、画面に広がる光と闇の美しさだ。小四は学校に隣接する映画の撮影所に忍び込み、そこで盗んだ懐中電灯をお守りのように大切に持ち続けている。闇に包まれた中で灯す一筋の光は、彼の心の拠り所のようだ。街では停電がしばしば起き、ロウソクが欠かせない。不良グループの襲撃シーンは、言うなれば歌舞伎の「だんまり」に当たる場面を写実で表現し、見えないものを見せるかのような闇が想像を掻きたてる。光が不意に点き、不意に消える仄暗い世界では生と死も恋も、すべて呉越同舟だ。
1992年、最初に日本で公開されたのは3時間余のバージョンだ。物語は小四と明の関係にフォーカスしていたが、4時間版では小四の家族やクラスメートなど周囲についても細かく描かれ、悲劇的な恋の物語の背景が鮮明になるばかりか、この作品が上海から来た一家の物語でもあることがわかる。希望に満ちていたはずの新天地で未だに苦しい生活を強いられ、よそ者扱いすらされる親たちが抱える不安は小四や兄姉も敏感に感じ取っている。1947年に上海で生まれ、幼くして家族で台北に移住したヤン監督は2007年に亡くなったが、生前に「この映画は私の父とその世代にささげられる。彼らは私たちの世代の苦しみが少なくなるよう苦労を重ねてくれた」という言葉を遺している。
公開以来なかなかDVD化が実現せず、幻の名作と言われてきた作品だが、確かに25年は長かった。と同時に、たった四半世紀後にエドワード・ヤンがこの世にいないという事実に打ちのめされる。存命ならば、まだ現役で撮り続けていて不思議ない年齢なのに、彼はもういない。映画の作り方も受け取り方も当時と今では大きく変わった。彼が作り上げた牯嶺街という宇宙だけが、そのままの美しさを湛えている。ニューヨーク・タイムズは「人生の一日を費やすに値する」と評したが、まさにその言葉通り、忘れられない一日をもたらす傑作だ。(文:冨永由紀/映画ライター)
『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』は3月11日より全国順次公開。
冨永由紀(とみなが・ゆき)
幼少期を東京とパリで過ごし、日本の大学卒業後はパリに留学。毎日映画を見て過ごす。帰国後、映画雑誌編集部を経てフリーに。雑誌「婦人画報」「FLIX」、Web媒体などでレビュー、インタビューを執筆。好きな映画や俳優がしょっちゅう変わる浮気性。
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