不寛容が恐ろしいほどの勢いで広まっている中での受賞は必然、と思える秀作

#イラン#週末シネマ

『セールスマン』
MEMENTOFILMS PRODUCTION-ASGHAR FARHADI PRODUCTION-ARTE FRANCE CINEMA 2016
『セールスマン』
MEMENTOFILMS PRODUCTION-ASGHAR FARHADI PRODUCTION-ARTE FRANCE CINEMA 2016

今年の第89回アカデミー賞外国語映画賞に輝いたイラン映画『セールスマン』は、『別離』(11年)に続いて2度目の同賞受賞を果たしたアスガー・ファルハディ監督の最新作。授賞式前には、アメリカでトランプ大統領が就任直後に発令したイスラム圏7ヵ国出身者の入国を禁ずる大統領令に抗議して、ファルハディ監督と主演女優のタラネ・アリドゥスティが授賞式欠席したことも大きく報じられた。

アカデミー賞外国語映画賞をイラン映画『セールスマン』が受賞。監督・主演女優は大統領令に抗議し欠席

授賞式はアメリカ映画界の反トランプの姿勢を強く打ち出し、『セールスマン』の受賞もその影響を受けたのでは、と見る向きもあったが、そんなサイドストーリーよりも作品そのものが圧巻であったことにこそ注目したい。事件に巻き込まれた夫婦が主人公の心理サスペンス作であり、物語を追ううちに21世紀のイラン社会の現実も見えてくる。

舞台はイランの首都テヘラン。主人公は、倒壊の危機にある自宅アパートからの立ち退きを余儀なくされた夫婦だ。教師の夫エマッドと妻のラナは共に小さな劇団に所属していて、劇団仲間の仲介で新居を借りる。前の住人の荷物がまだ残されたままという状態ながら新生活は始まった。そんな矢先、1人で自宅にいたラナが突然侵入してきた何者かに襲われ、重傷を負う。表沙汰にしたくない一心で警察への通報を拒む妻と、妻の選択に納得できず、逃亡犯を自力で捜そうとする夫の気持ちはすれ違い、やり場のない怒りを抱えたまま時間が過ぎていく。隣人たちから前の住人女性にまつわるいかがわしい噂を聞き、エマッドはそこから犯人の足跡をたどる。登場人物は誰もが傷ついている。彼らの多くは名誉を大切にするあまりに沈黙や嘘を選び、そこからさらに不信や絶望が生まれていく。

事件発生時、夫妻は主演を務める舞台「セールスマンの死」公演の真っ只中にいた。1949年初演のアーサー・ミラーによる名作戯曲は、新しい時代の到来に置き去りにされる年老いたセールスマンとその家族の物語だが、ファルハディ監督は本作と「セールスマンの死」にはよく似たテーマがあると話している。古い街並みが壊されてビルが林立し、開発が猛スピードで進むテヘランの現在はミラーが描いた1940年代末のニューヨークに近い。そしてどちらの物語も、屈辱と侮辱その両方に焦点を当てているという。アメリカの家族とイランの家族の悲劇の物語が時代も国も超えて重なり合ったようにも思える作品が、不寛容が恐ろしいほどの勢いで広まっている中でアカデミー賞を受賞したのは必然だったのだろう。(文:冨永由紀/映画ライター)

『セールスマン』は6月10日より全国順次公開される。

冨永由紀(とみなが・ゆき)
幼少期を東京とパリで過ごし、日本の大学卒業後はパリに留学。毎日映画を見て過ごす。帰国後、映画雑誌編集部を経てフリーに。雑誌「婦人画報」「FLIX」、Web媒体などでレビュー、インタビューを執筆。好きな映画や俳優がしょっちゅう変わる浮気性。