1997年7月12日生まれ。パキスタン出身。2009年、タリバン政権下の生活についてBBCのブログにペンネームで日記を投稿する。11年に国際子ども平和賞にノミネートされるも、12年10月に下校途中のスクールバスでタリバンに銃撃され瀕死の重傷を負う。奇跡的に一命を取りとめ、13年、16歳の誕生日にニューヨークの国連本部でスピーチ。14年にはノーベル平和賞を最年少で受賞した。命の危険があるため、現在は両親、2人の弟と共にイギリスで暮ら、バーミンガムの高校に通学しながら教育の必要性を訴え続けている。
パキスタン北部の山岳地帯に生まれ育ち、タリバンの圧力にも屈せず女子教育の必要性を訴えた少女マララ。彼女はタリバンから銃撃されてもなお活動を続け、2014年、17歳の時にノーベル平和賞を史上最年少で受賞した。『わたしはマララ』は、不屈の精神で世界を変えようと努力し続ける姿を追ったドキュメンタリー映画だ。
素顔のマララはブラッド・ピットが好きな普通のティーンネイジャーだが、彼女の原動力はどこからくるのか? 今はイギリスに暮らす彼女に、映画について、そして家族について語ってもらった。
マララ:とても嬉しかったです。デイヴィス・グッゲンハイム監督は私たちのストーリーをとてもパワフルに描いてくれたからです。
映画は、(家族の)過去にさかのぼり、父の人生や母の人生が描かれ、(読み書きのできない)母がどうやって困難に立ち向かったか、学校へ行くのを止めたかを見せています。それから私自身の生活、大きく成長し、学校のすぐそばにいたこと。私たちのストーリーを伝えたのは他の誰でもなく、私たちでした。ハラハラしたシーンは、弟が私を悪く言ったところでした(笑)。もしも続編があるとしたら、弟に私の批判はさせません(笑)。それ以外は、すばらしいと思いました。
マララ:初めは、この新しい文化を持った、まったく違う国に落ち着くのはとても大変でした。特に学校はまったく違うものでした。新しい教え方、知らない試験のやり方、友情のあり方も違っていました。でも時間が経つにつれ、今はずっと良い状態で、学校でたくさんの友だちができ、今では私も“ブラミー”(イングランドのバーミンガムの生まれの人の意味)のような気がしています。私は完全なブラミーで、自分のアクセントがちょっと変わって来たと感じています。インタビューでは違いますが、家にいるときはまったく違う話し方をしています。
マララ:これからの2年間でAレベルの成績をとって大学に行き、哲学、政治、経済学などを勉強したいと思っています。オックスフォードで学びたい考えているので、そのために努力して良い成績をとり、仕事にも就きたいと思っています。最近、2週間の仕事を経験しました。友だちと一緒に仕事を体験し、とても楽しかったです。
マララ:最初は、あまりにやることが多くて学校を欠席し、そのせいでちょっと遅れをとり多くの課題の復習をしなければなりませんでした。空き時間に、まだやっていない課題がたくさんあることに気づきました。学校を休んでいたからです。そういう課題にもっと時間をかけて、復習しなければならなかったんです。試験期間は大変だったので、今年は試験の時期には仕事をしないことにしました。
マララ:あの事件のせいで、ある意味、私の人生そのものが変わりました。襲撃される前には、誰かに襲われたら、私を止めようとタリバンが来たらどうなるかとちょっと怖がっていました。そういうことをよく考えていましたが、事件の後は、自分は生き延び、こうして生きているのだから、それにはなにか理由があるはずだと気づいたんです。銃弾は脳の近く、生き延びるとは思えないような場所に当たりました。でも、私はまだ生きていて、とても健康です。話ができるし、歩くこともでき、普通の人のように生活できます。ですから、私が生き延びたことには理由があり、その理由とは、人々を助け、教育のための戦いを続けることだと思っています。今は教育が私の生活の一部です。そのために働き、そのために戦うこと、それが今の私の生活です。
マララ:楽観していますが、決定や次に何をすべきかに関しては慎重です。でも、変化が起きることは楽観していますし、希望をもっていますが、その変化がいつ起きるかが問題です。いつ解決するのか。いつ改善されるのか。100年後か、50年後か、30年後なのか。どれだけの時間がかかるのか。いつ世界の指導者たちは時間を割いてくれるのか。だからこそ、私たちは今すぐ教育のために声をあげなければと言っているんです。もし黙っていたら、世界の指導者たちは、自分たちの子どもには良い教育を受けさせているので、他の子どもの教育に時間を割こうとしないからです。ですから、今すぐに問題に光を当てることが重要です。この問題にずっと注目を集め続けなければなりません。
マララ:はい。
マララ:少し覚えています。家が学校のすぐ近くにあったことはよく覚えています。まだ学校に入学する前に学校へ行っていたことを覚えています。4歳ぐらいの時でした。学校に遅れるとよく泣いていました。先生がどう思うだろうかと心配しました。先生が私に腹を立てるだろうかと。お父さんとお母さんが、「もう行かなければだめよ……」と言い、先生からは、「あなたを怒鳴ったり叱ったりしないから、学校に来なさい」と言われて。小さい時のことで覚えていることは確かにあります。私は18年間生きています。パキスタンで15年間、イギリスでもうすぐ3年です。
マララ:(学校を営んでいた)父は、いつでも私のロールモデルです。刺激を与えてくれる存在です。彼のスピーチが大好きですし、女性の権利や教育、私たちが見たいと思っている変革の話をするところが好きです。彼は変革について話し、「私たちにはできる。変革はもうすぐ起こる」と言います。それに私の学校には演説の上手な人がいました。少女たちが朝の集まりで演説をしていて、私もあんなふうに演説をしたいと思いました。父と同じように演説ができたらいいと思っていました。そのうち私も演説ができるのだと気づきましたが、父のような熱烈な話し手ではありません。私はかなり静かです。私は覚えていないことですが、母と父が言うには、私がとても小さい頃、誰もいない教室で椅子に向かって話すのが大好きだったそうです。まるで講義をしているように。私は教師のふりをしていたんです。
マララ:恐れることは人間性の一部だと思います。私にも怖いと思っていた時がありました。誰かが私の顔に酸をかけるかもしれないとか、テロリストに鞭打たれるかもしれないとか。だから学校へ行くのが怖かったです。でも、私を先へ進ませてくれたのは勇気でした。その勇気は父から受けた影響のおかげです。父が女性の権利や教育について発言をしていて、私のコミュニティ、スワート渓谷に平和がないことを見ていたからです。タリバンは学校を爆撃しています。そういうことを変えるとしたら、意見を発表し何かをする責任があります。それが私の勇気になりました。今は、私は楽観的です。いろいろなことに気を配り、質問をし、決断を下す前に考え抜いていますが、将来について、事態が変わることについては楽観しています。
マララ:今は、私にはまったく違う2つの生活があるような気がします。一つは家庭で弟たちとケンカをし、普通の女の子のように暮らし、学校へ行き、宿題をやりながら試験に備える生活。もう一つは、教育のために発言する生活です。2つの違った生活のようですが、実際は、1人の女の子がそういうことを全部やっているんです。私は毎日、この2つをつなげようと全力を尽くしていて、自分の生活の一部だと考えています。結局、私だけのことですから。私は普通の学生のように学校へ行き、試験のために備えなければならず、しかも意見も発表します。この2つは私の生活の一部ですし、両方とも私なんです。
マララ:ノーベル平和賞は特別な賞で、賞を受けた時は、まったく予想していなかったので、17歳というまだ子どもの時にノーベル平和賞を受賞するというのは大きな驚きでした。でも、児童と児童の教育のために立ち上がったことで賞を受けました。賞をいただいたことで、今こそ教育問題にさらに集中する時だと確信する力と勇気を手にしました。なぜなら、多くの子どもたちが学校へ行く権利を奪われているからです。これはとても重要な問題で、ノーベル平和賞は世界中にこのメッセージを広げるチャンスを与えてくれました。
マララ:まず、近いうちにパキスタンへ行けるといいと思っています。行けることを考えてワクワクしています。母国から3年間も離れているのはつらいことです。私たちは自分たちで選んでイギリスへ来たのではなく、状況に従った結果ですから。
それから10年後ですが、学校を終えて、大学の教育も終えていればいいと思います。パキスタンで子どもたちを学校へ行かせるためにすばらしい仕事をしているといいと思います。私は母国に強く責任を感じています。パキスタンがよりよい国になるように手を貸し、パキスタンの人々が平和を手にするように、良質の教育を受け、発展できるように努力しようと誓いました。世界の一方には技術やあらゆる新しい手段があり、もう一方では、学校へ通えない子どもたちがいて、基本的な設備を持たない人々がいるというのは残念なことです。私は母国の手助けができればいいと期待していますし、出来る限りの方法で実行するつもりでいます。
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