1943 年東京都生まれ。大学在学中に、日本ヘラルド映画に入社。映画の宣伝、買い付け、邦画の海外セールス業務などを行った。ヘラルド・エースの 設立と共に取締役に就任し、大島渚監督作『戦場のメリークリスマス』(83年)、黒澤明監督のアカデミー賞外国語映画賞受賞作『乱』を製作。ジョン・ローン主演による柳町光男監督作品『チャイナ・シャ ドー』(89年)を製作した後、NDFを設立し、企画開発及び製作を行い、デイヴィッ ド・クローネンバーグ監督の『裸のランチ』、アカデミー賞3部門に輝くジェイムズ・ア イヴォリー監督の『ハワード・エンド』(91年)、ニール・ジョーダン監督の大ヒット作『クラ イング・ゲーム』(92年)の資金調達を行ない、完成に導いた。
21年前、恵比寿ガーデンシネマで25 週に渡るロングラン上映された伝説的な作品『スモーク』。現代アメリカを代表する作家ポ ール・オースターが1990年ニューヨークタイムズに発表した短編小説「オーギー・レ ンのクリスマス・ストーリー」をもとに 作者自ら脚本を書き下ろし、名匠ウェイン・ワン監督が映像化した。
今もなお愛され続ける不朽の名作が、この度『Smoke デジタルリマスター版』としてよみがえった。今週末から公開される本作が出来るまで、そして今だから言える裏話などを井関惺プロデューサーに語ってもらった。
井関:NDFという会社を設立して映画のディベロップメント(開発)とファイナンス(資金調達)を手がけていた僕は、1991年夏、銀座の東武ホテルでウェイン・ワンに会いました。別の仕事で来日した彼が新たな企画を携えていたのは、バブル崩壊後とは言え日本はまだお金を持っている国と誤解されていた時代でもあったからでしょう。最初、ウェイン・ワンはユーロスペースの堀越謙三氏に相談し、堀越氏が彼と僕を引き合わせた格好です。
たまたま僕はポール・オースターのニューヨーク3部作を読んでいて、彼の大ファンでした。『スモーク』の企画のきっかけとなった、ニューヨーク・タイムズ紙に載った「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」の切り抜きをウェイン・ワンに見せられ、感激した僕は、ほとんどポール・オースターという名前だけに反応して「製作したい!」と言ってしまいました。
ポール・オースターが脚本を書くという条件を僕が付けたような話もありますが、それは事実とは違います。僕は「書いてもらえたら嬉しい」としか言っていないのに、ウェイン・ワンが条件のように伝えたのでしょう。おかげで翌日にはウェイン・ワンから「ポール・オースターがOKした」という朗報が入りました。でも、「どうせ井関はアメリカのパートナーを見つけられっこない」とポール・オースターが思っていたとは、後々まで知りませんでした(笑)。
井関:そうなんです。ウェイン・ワンが見つけてきた(フランシス・F・コッポラ監督が設立した製作プロダクション)アメリカン・ゾーイトロープとの話は流れ、僕があてにしていたソニー・ピクチャーズ・クラシックスからも断られました。社長のマイケル・バーカーとは、前身のオライオン・クラシックス時代に黒澤明監督の『乱』(85年)の仕事を通じて親しくなり、ジェイムズ・アイヴォリー監督の『ハワーズ・エンド』(92年)でも仕事をしたばかりだったのですが。
僕はミラマックスともニール・ジョーダン監督の『クライング・ゲーム』(92年)で仕事をしていましたが、社長のハーヴェイ・ワインスタインはまともに話を聞いてくれるタイプではなさそうだと思っていたところ、ちょうどサンダンス映画祭のプログラミングディレクターだった知人トニー・サフォードがミラマックスに入ったので、彼に話を持っていき、ようやくミラマックスが製作費を出してくれることになりました。
トニー・サフォードからは、「ウェイン・ワンとポール・オースターの組み合わせを考えられるお前は最高だ」と褒められましたが、それは前に言ったような成り行きなので僕の功績というわけではありません。でも、ひとつだけ僕に功績があるとすれば、ブルックリンでの撮影を決断したことです。安く作るために、ノースカロライナにあるセットを使って16ミリで撮る案も最後まで残っていましたが、やはりブルックリンで撮ることが重要だと感じたのです。
1993年秋にミラマックスの参加が決まる前後から毎週、ニューヨークに通う生活が6ヵ月続きました。金曜に発ち、その日にミラマックスと仕事をして、土曜はウェイン・ワンやポール・オースターや現場の人たちと打ち合わせをし、日曜の飛行機に乗って月曜に帰国する。たまたま同時期にNDFが税務署の特別調査を受けていたため、向こうに居続けるわけにはいかなかったのです。ミラマックスとの契約は細部を詰めるのに時間がかかり、契約書にサインしたのは撮影のわずか3週間前でしたが、トニー・サフォードの配慮で製作費の一部が前払いされたおかげで準備ができました。製作費は500万ドルと決まりましたが、最終的には550万ドルかかりました。
井関:製作費が確保できてホッとしたのも束の間、クランクインを前にして主演俳優が消えるという大問題が発生しました。
もともとポール役とオーギー役に決まっていたのはティム・ロビンスとトム・ウェイツだったのですが、その後にミラマックスの参加が決まると、ティム・ロビンスが「ノー」と言い出しました。過去に監督作品をめぐってミラマックスと大喧嘩したことがあったようです。一般的にアメリカでは、キャスト候補はAリスト、Bリスト……と作り、Aならミラマックスは文句を言わないが、Bは一応了解が必要、というような契約になっています。当然、ティム・ロビンスとトム・ウェイツでミラマックスはOKしていたのですが。
ティム・ロビンスの代わりに、同じくAリストのウィリアム・ハートが決まったと思ったら、今度はトム・ウェイツが行方不明になりました。世間と交際を絶ちたいとかで雲隠れしてしまったのです。彼の親友ジム・ジャームッシュに頼んでなんとか連絡を取ってもらいましたが、返事は「出演できない」。そこでハーヴェイ・カイテルがオーギー役を演じることになったというわけです。嬉しい後日談もありました。トム・ウェイツが「迷惑をかけたお詫びのしるしに」と楽曲を無料で提供してくれたのです。映画のラストに使われているあの名曲です。
井関:ハーヴェイ・ワインスタインは、巨体にごつい顔で、どう見てもプロデューサーというよりプロレスラーです。ある日、トニー・サフォードから「ボスがご機嫌斜めなので、なだめてくれ」と頼まれた僕は渋々ハーヴェイ・ワインスタインのところへ行き、でも本心から「『クライング・ゲーム』を世界的にヒットさせた戦略は素晴らしい。あなたは天才だ」と褒め称えました。返ってきたのは「So they say(みんなそう言うさ)」という憎たらしいひとことでしたが、ボスの機嫌は直り、トニー・サフォードに感謝されました。
ハーヴェイ・ワインスタインは、シザーハンズという仇名が付くほど編集が好きなので、こちらは警戒し、編集について契約書で細かい取り決めをしていました。ファイナルカット権はハーヴェイ・ワインスタイン、ウェイン・ワン、僕の3人が持ち、最初の編集に対してひとりでも「ノー」と言ったら監督が直す。それでもまた同じことが起こったらモニターに見せ、70点以下ならミラマックスが直す、と段階を踏むことになっていました。
アメリカでは、日本のようにラッシュをつなぐのではなく、音や音楽を全部付けて完成品とほぼ変わらないものを作ります。それを4〜5回直してからミラマックスに見せたのが1994年12月。果たしてハーヴェイ・ワインスタインは、「導入部の主人公と観客との距離感がありすぎる。もっと近づけてくれ」と注文をつけました。ウェイン・ワンは「距離は徐々に縮まるように作っているので、これでいいのだ」と反論し、激しい応酬が始まりました。僕は双方に感心しながら聞いていましたが、「お前はどうなんだ?」と振られ、「ハーヴェイの意見に賛成だ」と言いました。そのときのウェイン・ワンの「この野郎、裏切りやがった」と言いたげな目、いまだに忘れられません。
それから編集し直し、1995年2月のベルリン国際映画祭にギリギリで間に合い、銀熊賞を受賞しました。下馬評では金熊賞の最有力候補でしたが。晴れて完成したにもかかわらず、その後も案の定、ハーヴェイ・ワインスタインは「ここを切りたい、あそこを直したい」と言い出しました。僕は「絶対にだめだ」と突っぱね、やっとウェイン・ワンに許してもらえたのです。
井関:チームの中心にいたのはポール・オースターです。あれほど有名な作家なのに驚くほど人柄がよく、みんなに気を配っていました。
この映画が作品的にも商業的にもある程度の成功を収めた最大の要因は、チームワークのよさだと思います。スタッフのチームワークは不思議なことに画面に出るのです。唯一の問題点と言えば、ウィリアム・ハートはリハーサルが大好きなのに、ハーヴェイ・カイテルはリハーサルが大嫌いだったことです(笑)。
ちなみに、映画の内容にもかかわらず、メインスタッフで煙草を喫うのはポール・オースターと僕だけ。ポール・オースターは映画にも出てくるシンメルペニンクというオランダの葉巻を喫っていました。
ポール・オースターは脚本をウェイン・ワンのために書いた。ウェイン・ワンの作品を見、彼と話し、どんな人間か知ったうえで彼に合う脚本を書きました。これは素晴らしいことです。当初、僕はふたりの組み合わせによってエッジーな映画ができると予想していたのですが、出来上がったのはそれとは対極のいわば人情話。それまでのポール・オースターともウェイン・ワンとも違う世界が生み出された。こちらの期待を裏切って、なおかつ、いいものができるのは珍しいことです。
余談ですが、「映画の仕事はもう十分」と言っていたポール・オースターは、のちに『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(98)を監督することになり、カンヌで製作発表記者会見が行われました。映画作りに興味を持った理由を質問されたポール・オースターは、いきなり「あいつのせいだ」と、たまたま出席していた僕を指差したので、あとで僕はフランス人記者たちに事情を訊かれるはめになりました(笑)。
映画を一本製作すると、20人ぐらい新しい友だちができ、5人ぐらい古い友だちを失うものですが、この映画の場合は友だちを失うことなく20〜30人の友人ができました。こんな経験はほかにはありません。
こういう捉えどころがないような作品は宣伝が難しいのですが、日本公開の際、僕は「年齢や性別でターゲット層を絞ることだけはしないでほしい」と宣伝部に要望しました。年齢も性別も関係ない『スモーク』層と呼べるような人たちがいるはずだと、みんなが信じて頑張ってくれたおかげか、他に例がないほど幅広い観客を集めることができました。
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