●交響曲「悲愴」が示唆する不吉な予兆
(…前編「仙台に実在した名曲喫茶」より続く)
池松壮亮の演じる渉がバロック喫茶「無伴奏」のリクエスト・ボードに必ず書き込むのがパッヘルベルの「カノン ニ長調」だ。耳の肥えた音楽愛好家が集うであろう名曲喫茶でリクエストするにはいささかベタな選曲にも思えるが、成海璃子の演じる響子との恋の始まりを演出する楽曲としてはピタリとはまっている。バロック音楽専門店ということで、劇中で流れるのはやはり「ブランデンベルグ協奏曲 第3番 ト長調」「同 第5番 二長調」「フーガ ト短調」「平均律クラヴィーア曲集」などバッハの曲が多いが、タイトルの由来である「無伴奏チェロ組曲」は一度もかからない。
そして渉が「一番好きなレコード」と言って響子にプレゼントするのが、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」のLP。原作ではエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮/レニングラード・フィルによる1960年録音のレコードだったが、映画ではアレクサンドル・ラザレフ指揮/読売日本交響楽団の演奏が使われている。「無伴奏」では「カノン」のような清廉で明快な弦楽曲をリクエストするいっぽう、一番好きな曲は「悲愴」のような重々しい交響曲というところに、渉の複雑な人物像が見て取れる。普段はビージーズなどのポップスを好む響子にいきなり差し出された「悲愴」の調べは、渉との将来に不吉な予兆を感じさせるきっかけにもなっている。
無伴奏とはその言葉通り、伴奏をともなわない演奏のこと。響子と渉、そして祐之介とエマの4人は互いに強く惹かれ合っているが、そこには伴奏とかハーモニーと呼べるような調和はない。4人の行く末を知ることで改めて、見る者は本作のタイトルに込められた本当の意味を知ることになる。原作とともに何度も反芻して味わいたくなる素晴らしい作品だ。(文:伊藤隆剛/ライター)
『無伴奏』は3月26日より全国公開中。
伊藤 隆剛(いとう りゅうごう)
ライター時々エディター。出版社、広告制作会社を経て、2013年よりフリー。ボブ・ディランの饒舌さ、モータウンの品質安定ぶり、ジョージ・ハリスンの 趣味性、モーズ・アリソンの脱力加減、細野晴臣の来る者を拒まない寛容さ、大瀧詠一の大きな史観、ハーマンズ・ハーミッツの脳天気さ、アズテック・カメラ の青さ、渋谷系の節操のなさ、スチャダラパーの“それってどうなの?”的視点を糧に、音楽/映画/オーディオビジュアル/ライフスタイル/書籍にまつわる 記事を日々専門誌やウェブサイトに寄稿している。1973年生まれ。名古屋在住。
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