ボクシング元世界チャンピオンが失意のどん底から立ち上がる。これまで何度、同じような映画が作られてきただろう。だが、輪郭がステレオタイプだとしても、百人いれば百通りのストーリーがある。そのたった1つの物語を丁寧に紡ぐだけで、『サウスポー』もまた、唯一無二の個性を持つ映画になった。
ジェイク・ギレンホールが演じる主人公は、ビリー・ホープはボクシングの世界ライトヘビー級王者。43戦無敗という無敵ながら、自らも激しく消耗させる戦法に愛妻モーリーン(レイチェル・マクアダムス)は心配を募らせ、休養を迫っている。周囲から次の試合への期待が高まる中、慈善パーティに出席した帰りに悲劇が起きる。同じ階級で対戦を求めるボクサーがビリーを挑発、大乱闘の最中に発砲が起き、モーリーンが命を落としてしまう。
最愛の妻を亡くし、娘と2人で豪邸に残されたビリーの生活は荒れていく。大金を稼ぐのは彼自身だが、その運用法などまるで理解していない。リングに立つ以外はすべて妻を頼っていた彼は、母を亡くした年端もいかない娘を思いやる余裕もなく自暴自棄になり、金のために出た試合で反則負けと1年間の出場停止処分を受ける。豪邸を手放し、さらに銃の不法所持や飲酒、暴力などを理由に娘とも引き離され、すべてを失ったその時、彼は漸く再起を目指して歩み始める。
ホープという姓が効いている。どんな悲劇に見舞われても、どん底に突き落とされても、“希望(ホープ)”を背負っている。悪い冗談、皮肉のような名前だが、同時にそれが作品のテーマでもある。前作『ナイトクローラー』でのやせ細った肉体を6ヵ月かけて鍛え上げたギレンホールは、外形もしっかり作り上げたが、鋼の体躯に宿る魂の脆さを見事に表現する。巨額のファイトマネーが動くビジネスでもあるボクシングだが、そこで戦っているのは血の通う人間だ。ボクサーとして頂点に立っている時にさえ、名声も富も助けにならない不安を妻にだけは微かに見せるチャンピオンの弱さや、喪失からの薄皮を剥ぐような再生を繊細に演じている。
ビリーが再起を目指して門を叩いたジムのトレイナー、ティックをフォレスト・ウィテカーが演じる。知性とカリスマ性のある彼の説くボクシング哲学はそのまま人生に応用できるものでもある。前半でスクリーンからは消えてしまうモーリーンを演じたレイチェル・マクアダムスだが、短い出演シーンながら気丈で愛情深い女性像が印象的だ。そして愛娘レイラを演じたウーナ・ローレンスも素晴らしい。母に似て利発な少女が、胸にしまい込んでいた悲しみや怒りを父にぶつけるシーンで見せる激情は忘れ難い。
真に迫るボクシング・シーンは、実際の試合と同じように3分間のラウンドで演じられ、実際のTV中継と同じ手法で複数のカメラを設置して撮影された。拳と拳の戦いの潔さを描き、そこに銃社会の生む悲劇を織り込み、静かに問題を提起するストーリー構成にも注目したい。監督は、デンゼル・ワシントンがオスカー主演男優賞に輝いた『トレーニング デイ』(01年)のアントン・フークア。
闇が深ければ深いほど、そこに差す光の明るさは際立つ。光が闇の糧になり、闇が光の糧にもなる。そうして物語は進んでいく。それにしても、いいタイトル。映画を見れば、こう題するほかないことがよくわかる。(文:冨永由紀/映画ライター)
『サウスポー』は6月3日より公開される。
冨永由紀(とみなが・ゆき)
幼少期を東京とパリで過ごし、日本の大学卒業後はパリに留学。毎日映画を見て過ごす。帰国後、映画雑誌編集部を経てフリーに。雑誌「婦人画報」「FLIX」、Web媒体などでレビュー、インタビューを執筆。好きな映画や俳優がしょっちゅう変わる浮気性。
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