今年2月に46歳で急逝したフィリップ・シーモア・ホフマンの最後の主演作は、9.11後にドイツでテロ対策の極秘任務にあたる男を描くジョン・ル・カレ原作の『誰よりも狙われた男』だ。
・薬物過剰摂取で死亡のフィリップ・シーモア・ホフマン、7日にマンハッタンの教会で葬儀
ずんぐりした体躯に金髪という特徴のある外見をほとんど変えることなく、ホフマンは心優しい善人から狡猾な小悪党、冷酷無比の極悪人まで、実に幅広く演じてきた。アカデミー賞主演男優賞に輝いた『カポーティ』と、トム・クルーズをサディスティックに苛める『M:i:III』、そしてカリスマの空疎を演じた『ザ・マスター』。どんな作品においても外側ではなく内側から変わり、その結果、違う人物を見ている気にさせる役者・ホフマンが演じたのは、ドイツの諜報機関・憲法擁護庁で秘密のテロ対策チームを率いるスパイ、ギュンターだ。
9.11の実行犯たちが潜伏し、作戦を練っていたと言われるドイツの港湾都市・ハンブルグで任務に当たる彼らのもとに、ある密入国者の情報が入る。チェチェン出身でイスラム過激派として国際指名手配されている青年がなぜ、ハンブルグに現れたのか? 人権派の女性弁護士、秘密口座のある銀行とその経営者、穏健イスラム派の学者、そして内外の諜報機関までもが絡む心理戦の攻防が不気味なほどの静けさと緊張感をもって描かれる。
舞台はドイツだが、主要キャラクターはアメリカ人の俳優がドイツ語訛りとも微妙に違う不思議なアクセントの英語で演じる。その中にドイツ人のダニエル・ブリュール(『ラッシュ/プライドと友情』)がいるのだが、彼も当然英語で演じている。CIAエージェント役のロビン・ライトはもちろん普通の英語。この状態は見て/聞いていて、ちょっと混乱させられる。ホフマンをはじめ、レイチェル・マクアダムスやウィレム・デフォーは台詞1つを言うのにも枷がある。ホフマンもデフォーも攻撃的なパフォーマンスを求められることが多いので、その抑うつ的な違和感が功を奏し、新鮮な印象だ。
監督は写真家、デペッシュ・モードなどのPV監督としても知られるアントン・コービン。映画監督としての前作『ラスト・ターゲット』のジョージ・クルーニーもそうだったが、誰もが知る俳優のいつもと違う表情をとらえることに長けている。本作のホフマンにも不自然な台詞回しという荷物を背負わせながら、極限まで無駄を削ぎ落とした演技で顔なきスパイのむき出しの魂を見せる、という神業を引き出した。
自らの経歴(作家になる前はイギリスの秘密諜報部・MI6所属)に裏打ちされたリアルなストーリーで知られるル・カレの登場人物らしく、華々しい活躍を見せることなく、黙々と職人のように諜報活動に携わるしかない主人公の姿に、様々な役と対峙し、苦しみながら演じていった役者・ホフマンの晩年が重なる。
ル・カレは、自身の原作で映画化もされた『裏切りのサーカス』の主人公・スマイリーをアメリカ人がもし演じるとしたら、それができるのはホフマンだけだと言ったという。まるで熟練のスパイのように自己を消し去り役になる。その稀有な才能を発揮した最後の主演作が『誰よりも狙われた男』とは。その偶然は、運命的としか言えない。(文:冨永由紀/映画ライター)
『誰よりも狙われた男』はTOHOシネマズ シャンテほかにて公開中。
冨永由紀(とみなが・ゆき)
幼少期を東京とパリで過ごし、日本の大学卒業後はパリに留学。毎日映画を見て過ごす。帰国後、映画雑誌編集部を経てフリーに。雑誌「婦人画報」「FLIX」、Web媒体などでレビュー、インタビューを執筆。好きな映画や俳優がしょっちゅう変わる浮気性。
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