音楽=バッハな主人公の日々とは?
(…前編より続く)前編で触れたように、主人公のフレッドは絶縁状態の息子が少年時代に歌った「マタイ受難曲」のアリアを毎日カセットテープで聴くことをルーティンにしている。また、フレッドが外の社会と接する唯一の機会が村の教会の礼拝であるから、劇中では当然ながらバッハのオルガン曲が多用される。フレッドがバッハのレコードしか持っていないことを誇らしげに話すシーンが出てくるが、ほとんどキリスト教の教義の中だけで生きてきた彼にとって、もはや音楽はバッハと同義化しているのだろう。
そしてもうひとつ、劇中で“ある人物”が「This is my life(La vita)」という歌を歌い上げるシーンがあるのだが、それこそこの映画最大の見どころだ。この曲のオリジナル歌手はイギリスの国民的歌手、シャーリー・バッシー。映画ファンには『007 ゴールドフィンガー』や同『ダイヤモンドは永遠に』『ムーンレイカー』の主題歌を歌ったことでよく知られている。
「This is my life(La vita)」は彼女が1968年にリリースしたシングル曲で、ゴージャスなオーケストレーションを配した人生讃歌。歌われる歌詞の内容は、しがらみからの解放と揺るぎない自己肯定だ。劇中の“ある人物”が置かれた境遇と見事にシンクロしているとともに、フレッドが自分らしい生き方を選択するための後押しとしても重要な役割を果たしている。また、別のシーンではバッシーがこの曲を1984年に再リリースした際にB面として発表した「I am what I am」という曲も歌われる。こちらも物語とその人間模様を代弁するような内容で、ディーデリク・エビンゲ監督の音楽への造詣の深さがうかがえる。
本作の原題は『MATTERHORN(マッターホルン)』で、フレッドが亡き妻にプロポーズしたアルプス山脈の霊峰の名に由来している。邦題はそれとは何の関係もない『孤独のススメ』となっているが、これはある意味で本作の内容をより的確に言い表しているようにも思える。本作で描かれている人物は、誰もみな現実世界ではそうそう見かけないユニークで極端なキャラクターばかりだ。しかし彼らが経験することは、見る者が現実世界でよりよく暮らしていくためのヒントに満ちている。何もかもを失ったフレッドが孤独の中から自分にとって大切なものを見つけ出したように、人には一度孤独になることで見極められる真実が存在するはず。エビンゲ監督のそんなメッセージを確かに受け止めることができる名作だ。(文:伊藤隆剛/ライター)
『孤独のススメ』は4月9日より全国順次公開中。
伊藤 隆剛(いとう りゅうごう)
ライター時々エディター。出版社、広告制作会社を経て、2013年よりフリー。ボブ・ディランの饒舌さ、モータウンの品質安定ぶり、ジョージ・ハリスンの 趣味性、モーズ・アリソンの脱力加減、細野晴臣の来る者を拒まない寛容さ、大瀧詠一の大きな史観、ハーマンズ・ハーミッツの脳天気さ、アズテック・カメラ の青さ、渋谷系の節操のなさ、スチャダラパーの“それってどうなの?”的視点を糧に、音楽/映画/オーディオビジュアル/ライフスタイル/書籍にまつわる 記事を日々専門誌やウェブサイトに寄稿している。1973年生まれ。名古屋在住。
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